わたしたちは菅首相に救われていた?

 「初動の不手際」だの「後手後手」だの矢のような批判を浴び、IAEA原発事故調査委からも「政治介入」「事故がさらに発展するリスクを高めた」と指摘され、ダメ首相の烙印を押されながら退いた菅直人首相だが、原発事故独立検証委員会(民間事故調)の報告書をよく読むと、ある事実に行きつく。

 保守系新聞は現場の混乱を招いただの、菅首相による人災とまで書き、相変わらずの菅民主憎しで紙面を埋めたが、菅前首相は、日本を救ったのかもしれないのだ。

「撤退するか残るか」。東電と菅首相が直面した究極の選択
 福島原発事故直後に起きたことが、少しずつ分かってきた。焦点の一つは「昨年の3月15日」だ。事故4日目、すでに1、3号機の水素爆発が起きており、2号機格納容器の大規模な破壊と、さらなる大規模汚染が心配されていた。
 その日未明、東電が原発からの撤退を申し出て、菅首相が拒否。菅首相はその足で東電本社に乗り込み、社員を前に「撤退は許さない」としゃべった。詳細は不明だが、その映像が、不可思議な「音声なし」の状態で残っていることが明らかになった。
(中略)
 菅首相が何をしゃべっていたのかを知りたい、と思っていたら、すぐに情報がでてきた。翌3月15日の東京新聞夕刊が、「3・15菅氏発言/東電詳細記録」としてスクープしたのだ。(日付がややこしいが、昨年3月15日のできごとの記事が今年3月15日に出たのである)。
 記事には「東電が第一原発から全面撤退すると考えた菅氏が、できる限りの取り組みと、覚悟を迫っていたことがうかがえる」とある。東京新聞の記事から菅首相の発言を引用させていただく。これがすごい。 
 【「プラントを放棄した際は、原子炉や使用済み燃料が崩壊して放射能を発する物質が飛び散る。チェルノブイリの2倍3倍にもなる」「このままでは日本滅亡だ。撤退などありえない。撤退したら東電は100%つぶれる。逃げてみたって逃げ切れないぞ」「金がいくらかかってもいい。必要なら自衛隊でも警察でも動かす」「60になる幹部連中は現地に行って死んだっていいんだ。俺も行く」「原子炉のことを本当に分かっているのは誰だ。何でこんなことになるんだ」】(以上)
(後略)
http://astand.asahi.com/magazine/wrscience/2012032000009.html?iref=webronza

 菅首相が東電本社に乗り込んで、幹部に詰め寄ったことは報道されているが、詳細を改めて読むと、かなりの迫力である。

 なにより、福島からの撤退を言いだした東電幹部に対し、言下にノーを突きつけたことは、最大限に評価されるべきだろう。

 だが、もし、菅首相が「撤退」を了承していたとしたら――。

 東京より北の本州は、あるいは完全に不毛の大地と化し、半永久的にヒトの住めない無限の荒野となっていたかもしれないのである。

 当然、わたしの住む秋田も。

 菅首相は、それを未然に防いだ? わたしとわたしの家族を救ってくれた?

 東北地方。わたしがこよなく愛する郷里秋田。その自然も文化も風土も歴史も、菅首相が守ってくれた?

事業者目線の地熱開発

 ノンフィクション作家の町田徹という人が、地熱発電開発について何か言ってる。

 環境省のレンジャー(自然保護官)として現場を管理する自然環境局を、再生可能エネルギーへの期待を膨らませている国民感情と政府の意向を無視し、コストの高い“斜め掘り”でしか認めず、事実上、あらたな地熱開発を禁じたと批判し、「国益の変化とは無縁のレンジャー部隊に国策を委ねること」の問題を提起しているのだ。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/32033

 長文なので長い引用も抄録もしないでおくが、内容としては自然環境局を「中央官庁の組織とは異質の存在」「戦前の関東軍の行動を彷彿」と批判し、国立・国定公園の特別地域での開発(コストの安い垂直掘り)を認めよというもので、「これ以上地熱発電の育成・振興を妨げ続けるのならば、『環境省関東軍』にメスを入れる必要がありそうだ」と結んでいる。

 斜め掘りではなぜダメなのか。コストが高いと書いたが、垂直掘りに比べて2倍かかるらしい。

 実際の調査では、20ヵ所ぐらい採掘することが多いので、斜め掘りは、事業計画上の調査コストが80億円から160億円程度に跳ね上がる原因になる。地熱発電所は、環境アセスメント手続きなどもあり、8年から10年程度の開発期間が必要。この間、採掘コストも回収できないため、投資リスクを負う事業主体がいなくなるという。

 なるほど。垂直掘りでないと採算が合わないというわけか。見事な事業者目線ですな。

 地熱発電開発は、まさにわたしの地元の計画である。いまのところ別に反対はしてないけれど、個人的にふたつの面で疑問を感じはじめているので、せっかくだから書いておこう。町田氏の見解も真摯に拝聴するとして、ここはバランスを取るだけにしておきたい。

1.環境影響評価(アセスメント)での、鳥類の調査に疑問
 一見しただけだが、これデタラメじゃないか、アリバイ作りにもなってないぞと思わされるような内容だったので。
2.周辺の温泉に及ぼす影響の存否についての疑問
 秋田では過去に八幡平の大沼地熱発電所が出来たとき、上トロコ温泉の源泉が完全に枯渇したのをはじめ、銭川温泉に複数あった源泉がほとんど涸れてしまったり、温度の低下をみたり、さらには泉質の変化を来したりした。澄川地熱発電所建設後には大規模な土砂災害が発生して澄川・赤川温泉が壊滅するなど、大変な状況に陥ったことがあった。地熱発電所建設との因果関係は不明のままだが、地元の温泉組合と折衝が行われたと記憶している。今回の開発は、地元とどんな話し合いがなされるのか、見極める必要がある。

 というわけで、これ以上地熱発電所建設による自然破壊を続けるのならば、「事業者目線の地熱開発」にメスを入れる必要がありそうだ。

ルポ・震災一年の大船渡、陸前高田へ

大船渡市街地

 冬の名残りの低気圧が東北を覆い、岩手の内陸は小雪模様だった。花巻から遠野、そして分水嶺を越えて沿岸南部に位置する住田町に入る。ここでも雪はやまない。

 寒さは感じない。風はなく、立ちこめる雲も薄い。でも残雪わずかとなった田畑や山林が、真新しい白一色に染まる光景は、春の初めというより冬入りしたての情景に近い。

 車はやがて大船渡に至った。

 国道107号の隘路を下り、市街地が近づくと、かつて馴染みだった建物や盛川の清流が視界を埋める。そのまま市街地を抜けようと、盛駅の前を過ぎ、高架橋を越えたところで、街の様相は一変する。

 ああ、やっぱり。

 巨大津波は、大船渡市街地を分断するように、盛地区の南にある大船渡地区を、まるごと水没させた。

 盛地区は海から遠いぶんだけ、被害が少なかったが、大船渡地区は壊滅に近いのである。

 昨年夏に訪れたときは、がれき処理や土台の片づけなどで、市内あちこちで重機が土ぼこりを巻き上げ、作業していたが、いまはすっかり片付いたようだ。残っている建物もわずかだ。

 大船渡地区は、駅舎をはじめホテルやデパートが立ち並び、市内一番の繁華街であったが、かつての面影はすでにない。廃墟となったデパートなどの建物だけが、にぎやかだった当時をしのぶ素材となった。

 当時と言っても一年前に過ぎないが。

 すっかり更地となった駅前と線路。その西側は住宅地だったはずだ。解けた雪で泥状の道をゆき、錆びついた欄干の小橋を渡ると、透明な水がさらさらと流れていた。

この地に生きる

 Cさん宅は市内赤崎町にある。海からほんの50メートルの距離で、海抜10メートル足らず。2011年3月11日、あの巨大津波がもろに直撃し、建物は全壊した。

 しばらく避難所で暮らし、昨年秋に新築に着手したという。

 Cさんはもとの場所に家を建て直したのだ。

 津波による被害は甚大であったが、さいわい皆が無事であった。住み慣れたこの地を、多くの住民が離れてゆくのを、Cさんは唇を噛みながら見守りつつ、再出発の霧笛を鳴らす決断を下したのである。

 「うちはまだマシな方だった。この地域は漁師が多いが、海で稼いで御殿のような屋敷を建てた人たちが、軒並み家を流されてしまった」

 行政の動きが鈍いとはいえ、政府が進める高台移転や、土地を買って移住といった選択肢もあろうに、一家がここに残る道を選んだ背景はよくわからないが、Cさんの表情を見るに、この場所で長年、一家を養ってきたプライドと矜持といったものがしのばれた。

 どんな災害があろうと、自分はここから動くまい、建物や財産が失われようと、命だけは守りとおしてみせる、と。

 あたらしい畳や建材の匂いのただよう客間で、Cさんは多くを語らなかったが、更地だらけとなった地区の道標たる覚悟を定めた目は、やさしげでありながら強い決意をにじませるものだった。

したたかに

 大船渡駅跡地の西側に、地元の商店街有志が設置したプレハブの仮設商店街が建ち並ぶ。テレビでも紹介され、土曜日とあってなかなかの盛況ぶりであった。少し離れたところにも飲食店を中心にした仮設店舗が、しゃれた長屋風に置かれていた。

 理容店、書店、鮮魚店、菓子店などなど、かつて大船渡地区で営んでいた店主があつまり、更地を利用して地区の発展の起爆剤として設営したのだろう。宣伝効果は目に見えて現れている。観光客が物珍しそうに店内を覗きこみ、私も買い物にいくつかの店へ入ったが、目当ての品はほとんど売り切れであった。

 だだっぴろい荒野となった大船渡地区の一角に、プレハブ仮設店舗の集合体は、しかし異様な光景でもある。駐車場に車の出入りはひっきりなしで、人の往来も頻繁だが、さえぎるもののない広大な更地に風が吹けば、土ぼこりが舞いあがり、砂嵐のとばりに、きれいに飾った商店街の華やかさもかすんでみえた。

 かつての市街地は津波で壊滅。いまも残されているホテルやデパートの建物は、中心市街地の象徴として大船渡の経済を支えていたはずだが、津波の巨大なパワーの前に一瞬で廃墟となった。

 大船渡は住民の移転計画で揺れている。岩手は宮城・福島より、復興が比較的すすんでいると言われている。震災から一年が経ち、そろそろ明確な目標やゴールが策定されておかしくない時期だが、市内を瞥見した限りでは、終着への道のりは予想以上に険しそうだ。

 それでも住民たちはたくましく、したたかに生きている。故郷を去りゆく住民らの話は、ここではまだ聞いたことはない。逆に、死ぬまでここに住み着いてやろう、地震津波なんぞに負けてたまるか、という不屈の根性さえ見え隠れする。

 大船渡は、歩き続けている。

陸前高田

 国道45号を南下し、碁石海岸で有名な細浦地区をかすめ、陸前高田へ入った。

 岩手県沿岸部でもとりわけ大きな被害を受け、目を背けたくなるような壊滅状態と化した市街地は、すっかり平坦な更地となった。海岸付近では警察による行方不明者捜索が行われていた。

 がれきは浜の方へ寄せられたのか、あらたに積まれたのか、海はそうしたがれきの山に遮られて国道からは見えなかった。

 あす、ここで震災犠牲者の慰霊祭が行われる。その案内表示板があちこちに掲げられていた。

 いまも残る建物は、市役所やデパートや消防署などのみ。そのひとつにテレビ局の撮影クルーが陣取っている。民間の鉄筋コンクリート建てのものも、わずかになっていた。

 がれき撤去の重機や警備員の姿もなく、しずかな昼下がりであった。

 帰路につこうと気仙川沿いの国道をゆくと、郊外型のショッピングモールを連想させる場所が現れた。仮設というほど簡素ではない、本格的なモールである。コンビニはもちろん、スーパーやホームセンターが出店していた。

 住民たちの生活の基盤をささえ、市の経済を活性化させる復興のあゆみは、着実に見られる。

久々のクロカン

 陽気に誘われて地元の川辺をクロスカントリースキーで雪原散歩。

 クロカンなんて何年ぶりだろうか。7〜8年ぶりか?

 なにせ運動不足がハンパじゃない。クロカンはいて雪に踏み出したとたん、ひっくり返ってしまった。

 歩くのも長続きしない。10メートル進んでは呼吸を整える。あまり無理すまいとは思っていたが、ここまで体力が衰えていたとは。

 でも薄曇りの空の下、テンとおぼしき足跡をたどりながら、真っ白な雪の上に軌跡を残すのは楽しかった。

 ほんの30〜40分だったけど、いい運動になった。

岩盤浴は冬季閉鎖で

 先に雪崩事故で3名の死者を出した秋田県仙北市玉川温泉岩盤浴場。亡くなられた方々を悼みつつも、地元仙北市呆れた見識を示すニュースが報じられたので貼っておく。

雪崩防護柵設置求める 内閣府政務官仙北市
 仙北市田沢湖玉川温泉雪崩事故について、佐竹敬久知事は6日の定例会見で防護柵設置に否定的な考えを示していたが、門脇光浩市長は7日、内閣府郡和子政務官らが視察に訪れた際、「観光資源の高度利用のため一刻も早く防護柵を設置し、安全を確保できる状況になってほしい」との考えを示した。
 門脇市長は「国立公園は単に景観や自然環境を守るためだけにあるのではない。人が活用できる状況をつくることで公園の意味が生まれる。安全性を度外視して利用できないが、岩盤浴に訪れる湯治客はたくさんいる」と述べた。国には防護柵設置を求めた。
 堀井啓一副知事は「県としても完全に防護柵に反対というわけではない。各機関で話し合い、確実に安全を確保できる対策を考えなければならない」と話した。
http://www.sakigake.jp/p/akita/news.jsp?kc=20120208f

 門脇市長が言ったという。「国立公園は単に景観や自然環境を守るためだけにあるのではない。人が活用できる状況をつくることで公園の意味が生まれる」と。

 どこかで聞いたセリフだなと思った。一種なつかしいような既視感(デジャヴ)というか。記憶の糸をたどると、あの白神山地が林道建設で揺れたころ、旧八森町の有力者と思われる人物が地元紙で答えた言葉が浮かんできた。

 「……自然を放置することは、自然を守ることではない。自然の恵みを巧みにいかし、自然と生活の調和をはかるのは、そこにとどまり、そこに住む者でしかあり得ない」

 この有力者氏のセリフ、仙北市長のコトバと、趣旨がそっくりだと思いませんか?

 八森町はその後、いまも悪名とどろく青秋林道建設促進にばく進したが、地元の森を舐めつくすという狼藉ぶりが祟って、噴飯モノの自爆を遂げたことは以前に書いたとおり→http://d.hatena.ne.jp/binzui/20080409

 ただしそれは過去のこと。八森町八峰町になって町民の意識も変わり、かつて自分たちが破壊の限りをし尽くした地元の白神をよみがえらせるため、尽力していると聞いている。

 そこへきて仙北市長の見識はどうだろう。30年前の八森町と同じではないか。

 あそこは国有林である。つまり全国民のモノだ。一自治体が思いのままにできる場所ではない。ましてや国立公園。その辺の雑木林とはちがう。

 ぶっちゃけ、仙北市長サンは、あの緩斜面をこんなザマにするつもりですか?(↓某ブログより拝借) 火山性で地質がもろく、あちこちから硫化水素ガスが噴き出し、樹木さえ生えず、地滑りの危険性もあるあの斜面をですよ?

 玉川温泉岩盤浴は、難病に苦しむ人の最後の頼みの綱だ。医師に見放され、薬に頼ることさえできず、「藁にもすがる」といった次元を超えて、命をつなぐ唯一の拠り所だ。それは理解している。わたしも昨年の春に出かけ、そうした人たちに接して、生命の危機に瀕しながら一縷の望みを賭けて岩盤浴に通う方々の思いを垣間見た。

 しかし仙北市長の目的は、別の報道によればこう。

 「冬場の観光は市の重要な産業だが、今回の事故で風評被害を心配している。それをぬぐい去れるだけの安全対策が必要だ」
http://mytown.asahi.com/akita/news.php?k_id=05000001202080004

 だそうだ。早い話、雪崩防護柵をつくれば客足が戻ってきて、地元が潤うからということ。多額の費用がかかる防護柵の工事も地元業者が受注できるという思惑もあるんじゃないかと邪推さえしてしまう。

 つまり仙北市長は、難病治療に全国からつどう湯治客の切実な思いを、カネモウケに利用しているだけなのだ。無意味なサプリメント屋や、怪しげな○○石で利益を挙げている悪質業者と大差ない。

 国(現政権)や県は、国立公園をカネモウケのネタにしか見ない仙北市長の要求など蹴ってほしい。むしろ逆に諭していただきたい。雪崩現場に近い玉川温泉は、冬場の客が減少することは織り込みずみだろうが、ここは景観保護・自然保護の立場で、かつてそうであったように冬季の営業は縮小する方向で対策をとっていただきたい。12月から3月までは岩盤浴場閉鎖と。

 玉川ファンとしては断腸の思いであるが、それが一番よい選択だと思う。

「冬季の岩盤浴は諦めて」

 玉川温泉の雪崩事故の防止策について、佐竹知事が記者会見で言ったそうです。地元紙の記事の一部をコピペ。

玉川温泉雪崩「柵で防げない」 知事、設置に否定的
 (前略)再発を防ぐには以前のように冬季閉鎖するしかないと強調。「国立公園内でもあり、防護柵で安全策を講じるのは物理的に無理。設置には莫大(ばくだい)なコストも掛かる。ニーズがあってもどこかで妥協し、諦めることが必要ではないか」と指摘した。
http://www.sakigake.jp/p/akita/news.jsp?kc=20120206q

 あのワシ(表層雪崩)事故後、犠牲者を悼むとともに気がかりだったのが、いかなる雪崩防止の対策を県や町が講ずるかということでした。

 いちばん考えられるのは雪崩防護柵の設置です。あちこちの斜面にホチキスみたくガッチガッチと。鶴の湯がそんなふうになってしまいましたし、泥湯もそうなっちゃってます。

 国立・国定公園内でですよ。

 アレと同じ真似を玉川でもやらかすのか…とげんなりしていたところでした。

 ところが知事は「物理的に無理」「諦めるべき」と結論付けていました。

 これは賛成です。あんな地質が脆く、火山性地滑り地帯に柵なんて非現実的。よほど金をかけて頑丈に根深く作らないと、防雪柵は崩れてしまいます。

 だから知事の見解は、大いに賛同できます。そもそも玉川温泉は、20年ほど前まで冬季閉鎖の温泉地だったのですから。

 でも、玉川ファンとしては複雑な思いも抱いてしまいます。

 玉川の岩盤浴は、難病患者にとって唯一無二の「最後の頼みの綱」なのです。

 あの岩盤浴で難病、とくに末期がんが完治した人はいません。岩盤浴は難病を治癒に運びません。そんな事例も根拠もありません。

 ただ、腫瘍などが小さくなって、CTやレントゲン画像から消えたケースがいくつかあるそうですが、岩盤浴や湯治との因果関係は不明です。

 医者に見放されて玉川をおとずれ、余命をはるかに超える年月を送り続ける患者も珍しくないそうで。

 聖地巡礼さながら玉川をおとずれる難病患者は、そこに一縷の望みをつないで、はるばる秋田までやってくるのでしょう。

 冬季の営業を開始したのは20年ほど前からですが、年中岩盤浴ができることになったおかげで救われた患者もいるでしょう。

 たとえ雪崩の危険があろうと、ロープで岩盤浴場が閉鎖されていようと、一縷の望みを捨てるわけにはいかないと、患者はカンジキはいたりスキーをつけたり、ボッカにソリを引っ張ってもらったり、それこそ這ってでも岩盤浴へ行くことでしょう。あそこはそういう場所なのです。

 過去に記録もない、たった一度の雪崩で、全国に散る難病患者の命運が決まりかねないなんて、自然の無慈悲さ・不条理さを痛感しています。

玉川温泉で残念な事故が

 昨夜の速報から固唾をのんで見守っていたけど、3名が亡くなるという残念な結果に。

 過去にワシ(表層雪崩)なんて起きたことない場所なのに…。

 わたしは昨年の4月と5月、春めいてきた八幡平を訪れ、この玉川温泉に、つごう17泊してきた。

 下界はスギが花粉を飛ばしていたけど、玉川温泉周辺はまだ冬の装い。日によってはふぶきが荒れ狂うこともあったが、ときおり射す薄日は紛れもない春のそれ。そんなうららかな日に、わたしは岩盤浴を楽しんだ。

 震災の影響で宿は客が少なく、予想外にのんびり過ごせた。じつに有意義な湯治であった。

 これがなにに効くのかよくわからなかったけれど、岩盤浴のあとは不思議に体が軽く、ほぼ毎日、朝・昼、そして夜更けになると、やおらゴザや毛布をかついで、あの遊歩道をてくてく歩いて行った。

 日中は小屋が混み合うけれど、夜間だと空いている。地熱の手頃な場所をさがし、ゴザを敷いて体を横たえ、毛布と断熱シートをかぶって、目を閉じる。

 沢の音だけが響く小屋。外は満天の星空。魂が異世界を漂うひとときを楽しんだ。

 その思い出の小屋を、雪崩が飲み込んだ。湯治客もろとも。

 まさか、と思った。4月にいったとき、何度も周囲を確かめ、ワシもしくはヒラ(全層雪崩)の危険性を目視したが、よほどの降雪でないかぎり、まず安全と思ったから。

 しかしここ数日の雪は「まさか」を超えたらしい。

 亡くなられた3名に冥福を捧げるとともに、玉川温泉の価値がこれで損なわれることがないよう、願いたい。

 * * *

 湯治に行ったとき撮影した岩盤浴小屋の動画をUPしておきます。撮影は2011年5月です。