ルポ・震災一年の大船渡、陸前高田へ

大船渡市街地

 冬の名残りの低気圧が東北を覆い、岩手の内陸は小雪模様だった。花巻から遠野、そして分水嶺を越えて沿岸南部に位置する住田町に入る。ここでも雪はやまない。

 寒さは感じない。風はなく、立ちこめる雲も薄い。でも残雪わずかとなった田畑や山林が、真新しい白一色に染まる光景は、春の初めというより冬入りしたての情景に近い。

 車はやがて大船渡に至った。

 国道107号の隘路を下り、市街地が近づくと、かつて馴染みだった建物や盛川の清流が視界を埋める。そのまま市街地を抜けようと、盛駅の前を過ぎ、高架橋を越えたところで、街の様相は一変する。

 ああ、やっぱり。

 巨大津波は、大船渡市街地を分断するように、盛地区の南にある大船渡地区を、まるごと水没させた。

 盛地区は海から遠いぶんだけ、被害が少なかったが、大船渡地区は壊滅に近いのである。

 昨年夏に訪れたときは、がれき処理や土台の片づけなどで、市内あちこちで重機が土ぼこりを巻き上げ、作業していたが、いまはすっかり片付いたようだ。残っている建物もわずかだ。

 大船渡地区は、駅舎をはじめホテルやデパートが立ち並び、市内一番の繁華街であったが、かつての面影はすでにない。廃墟となったデパートなどの建物だけが、にぎやかだった当時をしのぶ素材となった。

 当時と言っても一年前に過ぎないが。

 すっかり更地となった駅前と線路。その西側は住宅地だったはずだ。解けた雪で泥状の道をゆき、錆びついた欄干の小橋を渡ると、透明な水がさらさらと流れていた。

この地に生きる

 Cさん宅は市内赤崎町にある。海からほんの50メートルの距離で、海抜10メートル足らず。2011年3月11日、あの巨大津波がもろに直撃し、建物は全壊した。

 しばらく避難所で暮らし、昨年秋に新築に着手したという。

 Cさんはもとの場所に家を建て直したのだ。

 津波による被害は甚大であったが、さいわい皆が無事であった。住み慣れたこの地を、多くの住民が離れてゆくのを、Cさんは唇を噛みながら見守りつつ、再出発の霧笛を鳴らす決断を下したのである。

 「うちはまだマシな方だった。この地域は漁師が多いが、海で稼いで御殿のような屋敷を建てた人たちが、軒並み家を流されてしまった」

 行政の動きが鈍いとはいえ、政府が進める高台移転や、土地を買って移住といった選択肢もあろうに、一家がここに残る道を選んだ背景はよくわからないが、Cさんの表情を見るに、この場所で長年、一家を養ってきたプライドと矜持といったものがしのばれた。

 どんな災害があろうと、自分はここから動くまい、建物や財産が失われようと、命だけは守りとおしてみせる、と。

 あたらしい畳や建材の匂いのただよう客間で、Cさんは多くを語らなかったが、更地だらけとなった地区の道標たる覚悟を定めた目は、やさしげでありながら強い決意をにじませるものだった。

したたかに

 大船渡駅跡地の西側に、地元の商店街有志が設置したプレハブの仮設商店街が建ち並ぶ。テレビでも紹介され、土曜日とあってなかなかの盛況ぶりであった。少し離れたところにも飲食店を中心にした仮設店舗が、しゃれた長屋風に置かれていた。

 理容店、書店、鮮魚店、菓子店などなど、かつて大船渡地区で営んでいた店主があつまり、更地を利用して地区の発展の起爆剤として設営したのだろう。宣伝効果は目に見えて現れている。観光客が物珍しそうに店内を覗きこみ、私も買い物にいくつかの店へ入ったが、目当ての品はほとんど売り切れであった。

 だだっぴろい荒野となった大船渡地区の一角に、プレハブ仮設店舗の集合体は、しかし異様な光景でもある。駐車場に車の出入りはひっきりなしで、人の往来も頻繁だが、さえぎるもののない広大な更地に風が吹けば、土ぼこりが舞いあがり、砂嵐のとばりに、きれいに飾った商店街の華やかさもかすんでみえた。

 かつての市街地は津波で壊滅。いまも残されているホテルやデパートの建物は、中心市街地の象徴として大船渡の経済を支えていたはずだが、津波の巨大なパワーの前に一瞬で廃墟となった。

 大船渡は住民の移転計画で揺れている。岩手は宮城・福島より、復興が比較的すすんでいると言われている。震災から一年が経ち、そろそろ明確な目標やゴールが策定されておかしくない時期だが、市内を瞥見した限りでは、終着への道のりは予想以上に険しそうだ。

 それでも住民たちはたくましく、したたかに生きている。故郷を去りゆく住民らの話は、ここではまだ聞いたことはない。逆に、死ぬまでここに住み着いてやろう、地震津波なんぞに負けてたまるか、という不屈の根性さえ見え隠れする。

 大船渡は、歩き続けている。

陸前高田

 国道45号を南下し、碁石海岸で有名な細浦地区をかすめ、陸前高田へ入った。

 岩手県沿岸部でもとりわけ大きな被害を受け、目を背けたくなるような壊滅状態と化した市街地は、すっかり平坦な更地となった。海岸付近では警察による行方不明者捜索が行われていた。

 がれきは浜の方へ寄せられたのか、あらたに積まれたのか、海はそうしたがれきの山に遮られて国道からは見えなかった。

 あす、ここで震災犠牲者の慰霊祭が行われる。その案内表示板があちこちに掲げられていた。

 いまも残る建物は、市役所やデパートや消防署などのみ。そのひとつにテレビ局の撮影クルーが陣取っている。民間の鉄筋コンクリート建てのものも、わずかになっていた。

 がれき撤去の重機や警備員の姿もなく、しずかな昼下がりであった。

 帰路につこうと気仙川沿いの国道をゆくと、郊外型のショッピングモールを連想させる場所が現れた。仮設というほど簡素ではない、本格的なモールである。コンビニはもちろん、スーパーやホームセンターが出店していた。

 住民たちの生活の基盤をささえ、市の経済を活性化させる復興のあゆみは、着実に見られる。