窓ガラスのへのへのもへじ

 ヤマハポピュラーソングコンテストポプコン)で優秀曲賞をおさめたさそり座(現・SWAY)の『窓ガラスのへのへのもへじ』の「初ライブ」歌を発見した。もともと大好きな曲だったが、生歌に、ふたりのトークまであったとは驚きなのでUPします。

 思ったのは声質。中学生当時から変わらないといっては嘘になるが、大人っぽくなるどころか、逆に幼くなってて思わずドキリとした。杉山加奈さんとペアをくむ堀部雅子さんの、笑いをとるうまさやトークの楽しさは、聴いていても楽しさが伝わってくるほど。トークなんて聴いていて楽しいことはめったにないが、聴いてよかったと久しぶりに思った。

おはようダンス

 学生時代の最後の一年は仙台での専門学校。当時暮らしていた学生寮で、同室の先輩が朝につけていたテレビは、なぜか「ひらけ!ポンキッキ」であった。

 その番組で流れていた曲というかプロモーションビデオが、「おはようダンス」(歌:広瀬えり子)という歌。

 べつに名曲ではなく、たんなる幼児向けの踊り&歌のミックスソング(なんて言い方があるのかな)。でも独特の歌い回しと、ダンス参加者がつぎつぎに増えてゆく小気味のよさと斬新さに、つい見入ってしまってた。そんなわけで学生時代の思い出深い曲のひとつになったわけ。

 YouTubeで検索したら見つかり、あまりになつかしいのでUPしときます…けど、私が見たのとちょっと違うみたい。当時流行していたブレイクダンスを披露する参加者がいて、そこが一番の見どころだったのに、この動画には含まれていない。それがちょい残念。

初詣へ

 おふくろ連れてひさびさに初詣。Y市の神明神社へ行ってきた。

 実は私、初詣はめったに行かない。よほど気が向いたときだけ。もともと神社というのは好きじゃないのだ。

 大和朝廷による東北・蝦夷侵略の象徴だから。

 坂上田村麻呂蝦夷“平定”のあかつきに建立された○○神社――などと伝承される大小さまざまな神社が、東北には腐るほどあるのだ。

 蝦夷“平定”の名において、わが遠い祖先は渡来大和人に、ことごとく蹂躙された。蝦夷が降伏すると、ドジンどもが二度と反乱をくわだてない祈念にと、鳥居を建て、お社を築き、神社を建立した。

 それまで蝦夷縄文人は、アラハバキ神など土着の信仰を長く続けてきたが、すべて朝廷軍に破壊された。

 東北における神社の歴史はせいぜい1200年だが、縄文人の信仰は数万年はつづいたとされる。平和を保ち、争いごとを避け、自然・事象あらゆる森羅万象をつかさどり、人々のこころの拠り所として、神社とアラハバキ、どちらが“ご利益”があるか明々白々なのだが、いまや東北人はほぼ百%、神社をありがたがっている。

 日ユ同祖論の根拠にもあげられるように、神社はユダヤ教のパクリとも言われる。渡来人が持ってきたのだから当然であろう。そんな外国の信仰の亜流を、日本神道などとして、大多数のニッポン人は日本特有の宗教と勘違いしているのだ。

 前置きが長くなった。

 まあ、だからといって神社を否定するのも野暮だし、1200年もつづいた信仰を伝統として認めないわけにもいくまい。

 土着の信仰をぶち壊されたわが祖先・蝦夷の無念はそっと胸にしまいこみ、お参りにくる人たちに交じって鳥居をくぐった。

 お賽銭は奮発して500円。高校生バイトらしい巫女さんから幸先矢を買い、おみくじを引く。

 小吉……。

 中身は……いや、びっくりするほど正鵠を射ている(笑。

 アップロードしようかと思ったが面倒。そのうちあげます。

 というわけで2012年もよろしく。(↓おみくじです)

来年もよろしく

 事情があって更新は激減しましたが、ノートは今後も続けます。

 月1回程度の書き込みになろうかと思いますが。

 ツイッターの方は、なるべく頻繁に書き込むつもりです。

 戦後最悪となった自然災害に見まわれた2011年よ、さらば。

 来たる2012年は、すばらしい幸福に満ち溢れた年でありますように(マヤ歴がちょい気になるかも)。

小安峡はまるごとスギ植林地

 紅葉真っ盛りの県内、夜6時10分からのNHK「ニュースこまち」で、湯沢市皆瀬の小安峡温泉が紹介されていましたね。県内の紅葉の名所シリーズの一環で、県南部を代表する?わが湯沢市の一大観光地が出るのは、地元として喜ばしいことです。

 番組では、温泉街を包みこむ山野や、栗駒国定公園が朱や黄に染まっている光景を“必死”に伝えようとしていました。なぜ“必死”かというと、紅葉の見ごろは限定的であることと、小安温泉周辺は国定公園ではあるけれど、実際は紅葉の名所に値するものではないからです。

 しかしNHKはそんな実態を報じてはくれませんでした。これはまずい。「事実」を伝えないと、とんでもない事態が引き起こされるかもしれないし、なによりバランスをとって是非を論じないと、健全な県民性がはぐくまれないのではないかと思うのです。

 その「事実」とはなにか。それは、小安峡は紅葉の名所どころか、まるごとスギ植林地と言っても、言いすぎじゃないのです。

 では、バランスをとるべく、小安峡の「事実」たる証拠写真をお見せしましょう。撮影したのは本日2011年10月20日(木)、午前10時半ころから正午過ぎにかけてです。






 いかがですか? この写真はすべて、小安峡温泉街をとりまく山野です。高い山々は、たしかに紅葉に萌えていますが、そのてっぺんや、中らへんや、裾野に、ドス黒いスギ植林地が、漆黒のアメーバのように、あるいは黒アザのように、どっかりと占拠しているのであります。

 里山ならいざしらず、これで「紅葉の名所」であり、国定公園なんですよねえ、秋田の。笑っちゃいます。

 おなじ栗駒国定公園でも、宮城の鳴子峡や鬼首なんか、度肝を抜くほど見事な紅葉。まさに燃え上がる山々です。その差は歴然。

 ぐるっとひと回りしてみましたが、スギ人工林、ほとんど手入れはされていません。若干、枝打ちを行った箇所がありましたが、多くは放ったらかし。幹の細い線香スギや、枝の伸び放題スギだらけ。下草刈りもされてないのでヤブも生い茂り、間伐されておらず暗いままの森。

 秋田の森は黒い――そんな陰口が頭をよぎります。

 さて、まるで燃え上がるような、全山が見事な紅葉に染まった小安峡を期待して訪れた方々は、この景観を見て、なんと思うでしょうか。

 詐欺。うそつき。騙された。どこが紅葉の名所だふざけるなってところでしょうか。

 写真を趣味にしている人も、ファインダーにスギ林が入らないように、細心の注意を払いながら、伐採の魔手が及ばなかった皆瀬川沿いの断崖の広葉樹を狙うしかないことでしょう。

 観光客からスギが目障りだと苦情がきたとの話は、いまのところ耳にしていませんが、このままスギ植林地を放置状態にしていては、いずれクレームがくることでしょう。

 秋田県側の栗駒国定公園を走る国道108号や342・398号、県道仁郷大湯線(旧栗駒有料道路)沿いのスギ植林地の無残さ・無粋さは秋田の恥といえますが、仁郷大湯線の方は、ことし夏ころから、植林スギの間伐が行われております。あれと同じ事業を、小安峡で、いや県内すべての国立・国定・県立公園、自然環境保全地域で行うことはできないでしょうか。

 国定公園内とはいえ、スギ植林地の少なからぬ部分は国有林ではなく、民有林・部落共有林と思われますが、価値の低いスギに所有者はどれだけ期待を寄せているのか。個人や部落が大切に育てている本当に必要なスギ植林地は残し、放置スギ植林地は市や県が買い取って間伐・択伐し、本来あるべきブナ・モミジ・イタヤカエデに植え替えることを、真剣に検討されてはいかがかと思います。

 いまのまま30年、50年も経って変化がないようでは、小安峡、湯沢市、ひいては秋田のためには決してならない。わたしは強く断言します。

 NHKにもひとこと。わが地元の景勝地を紹介してくれるのはありがたいのですが、「…しかし、周辺の山々はスギ植林地が広がり、見物客の不評を買うおそれもあり、今後の検討課題になるかもしれません」との論評をちょっとだけ混ぜてくだされば、「余計なことは言ってくれるな」と反発を招くおそれもさることながら、ある意味、地元を目覚めさせるきっかけになるかもしれません。その結果、NHK秋田放送局の信頼度も、さらに上昇すると思われます。

 ぜひ「今後の検討課題」にしてください。

 (編集するかも)

「トトロの木」と電信柱

トトロの木。花粉もすごそう。


 山形県某所に出張に行った帰り道、鮭川村の山間部で「トトロの木」なんていう看板をみつけた。

 興味が湧いて看板の案内にしたがって行ってみたら、小さな集落の田んぼの中に、それらしいスギの古木が立っていた。画像がそれ。

 角度によっては、頭の耳?と体の恰幅が、たしかに映画『となりのトトロ』のトトロを連想させる。

 「小杉の大杉(曲川の大杉)」というのが正式な名前だそう。もともとは縁結びのスギで、樹齢1000年と推定され、周辺からは遺跡も発掘されたらしく、古くから神木として崇められていたとみられているとか。

 でも、かたちがトトロに似ているというので、そっちの面でけっこうな評判らしい。きょうは連休明けの平日だけど、私が駐車場に戻ってくると、べつのペアが見物に来たところだった。

 当初は田んぼの一角にあったらしいが、見物客が増えたことで、地元の有志が遊歩道や駐車場の整備を行ったのが数年前。

 ヒトのためにヒトがする整備。それはいいけど、スギのための整備も怠らないでほしいし、周辺の景観にも配慮していただきたい。

 例によって鉛色の電信柱が、遊歩道の木枠そばにデデンと立っていて、邪魔というか、景観を損ねることおびただしかった。住宅なんかないのに、なぜここまで電気が引かれているのやら。東北電力に撤去か地中化を陳情したら?

 それはそうと、イヌタデの赤紫が鮮やかな晩秋の節、西日を浴びて温かそうなスギは、1000年の間、どんな光景を見守ってきたことだろう。

震災半年に思う

 当初、死者数8万5000人なんて、某海外メディアが報じていた。国内のメディアも3万人超えは確実と伝え、明治三陸津波を超えて、明治以降の津波災害では最悪の記録となると、私も思っていた。

 結局、死者・行方不明者数は2万人を割り込む見通しだが、この震災がもたらした傷跡の深さは死者数に関わらず、私たちの心に決して消えることのない擦痕を残し、のちのちまで引きずることとなるだろう。

 あれから半年。北海道から千葉までの沿岸部に大津波を引き起こした超巨大地震が起きたのは、冬の終わりの3月。春を迎え、夏を過ごし、秋風が吹き始めた東北の人々は、何を見て、何を思い、何を将来へ託そうとしているのか。

 テレビでみる震災半年特集番組は、ガレキの片づけは終わったけれど被災者を取り巻く環境に大きな変化がないことを伝えていた。私は岩手県陸前高田と大船渡しか行ってないが、三陸沿岸部をほぼ全域網羅した同僚は、多少の差はあれど、どこもかしこも壊滅状態であることを、ため息混じりに語っていた。

 半年程度では復興はこれが限界なのか、それとも政府や行政の対応に不手際があったからというべきか。

 どちらも間違いではないと思う。でも私は、これだけ生活が豊かになった日常に襲いかかった自然災害の凄まじさに、人々が理解・順応しきれず戸惑っているのではないかと見ている。

 明治三陸津波のころは、建物は木造かやぶき屋根が当たり前で、鉄筋コンクリートなんてものはない。漁船もすべて木造で手こぎ、遠洋漁業どころか近海で獲れるサケやアジやイワシ・サンマ、浜で拾えるワカメ・コンブ・ウニで、人々は生計をたて、自給自足の生活をしていた。

 津波で家々は流されたが、高台移転も新築も、すべて自前でやっていた。建築業者や左官屋など、それを専門にしている職人などいない。漁師は農家も兼用し、ときに大工になったり土方になったり、石工にも早変わりしていた。

 だれもがオールラウンドプレイヤー。だから復旧は早かったし、人々の絆も深かった。

 もちろん、復興資金にこと欠いたことは想像できるが、ひとびとは裕福な生活より、安全で安心できる暮らしをこそと、そのために汗を流した。駅の近くだの商店街に行きやすいところだの、学校のそばだのといった要望がネックになって、復旧が遅れたケースがあったかどうか。

 「生きられること」が絶対無二の条件であり、生き残った人たちのすべてだった。

 いまはどうだろう。

 明治期とは格段の差がある生活環境。しかも明治三陸津波より死者数は少ない。にもかかわらず、当時より復興は遅れていると見てよさそうだ。

 生きられるという条件はクリアした。次は? さらにその次は? 人々の要望に際限はない。震災を契機に、あわよくば震災以前を上回る環境と行政サービスを得ようという下心がちらつく。

 それがいけないとはいわない。むしろ、与えられて当然だと思う。彼・彼女らは地獄を見て命拾いした人たちだ。

 ただ、何かが歪んでいるような気がする。度重なる津波災害を乗り越えた、たくましき人たちの子孫なのに、奇跡の復興をなしとげた先人とは、微妙なズレがあるように思えるのだ。

 その正体はなんだろう。いつか見えてくるかもしれないが。