ルポ・八ッ場ダム

 4年前、2005年1月に、ひょんなことから群馬県を訪れ、流れで川原湯町へ行った。予定にはなかったが、いま揺れに揺れている巨大ダム「八ッ場ダム」の現場を緊急取材したのである。それをもとに書いたルポがある。

 といっても、あのときはほとんどなんの準備もなしに訪問したので、たんに温泉街を歩いただけに過ぎないが、さきの総選挙で、政権が自民党から民主党主体に移り変わろうといういま、このダムの是非があらためて問われているので、ここに公開したいと思う。執筆したのは4年前だが、雑誌・HPいずれにも未公開の書きおろしである。

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川原湯温泉

 鉛色の冬空は、浮かれた正月気分にある通俗と違い、どこかもの淋しさをかもし出す。まるでこの地域の未来を象徴しているようだ。

 群馬県。全国に名の知れた名湯・草津の隣り町にある長野原町を流れる吾妻川の渓谷は青白く濁っていた。汚れているのではなさそうだ。この川もまた、火山性の強酸性水であり、下流域の人々の暮らしを苛んできた。

 高崎から電車に揺られること一時間余り。吾妻川沿いに延びる線路の両岸が忽然と険しさを増してくる。切り立った断崖を縫うような国道145号とともに穿われたJR吾妻線、すこし拓けた台地に電車がさしかかったころ、小さな集落が現れた。

 川原湯集落だ。駅の名前は川原湯温泉駅。この駅舎も、ダムの底に沈む運命にある。

 昭和二十七年(1952)の初夏であった。川原湯村民は、何の話かの説明もなく集会所に集合させられた。町長の先導で話を始めた建設省の役人、坂西徳太郎は村民の頭越し「ここにダムを造る」と言い放ち、「この村は、ざんぶり水につかりますな」と横柄にもそう苦笑して、その場を立ち去った。くわしい水没理由の説明などなかった。ただ、「ざんぶりですな」というその簡単な申し渡しが、村民が受けたはじめての水没宣告であった。
(萩原好夫著『八ッ場ダムの闘い』岩波書店刊=より引用。以下同じ)

 午前11時になるところだった。正月休みはもう終わったのだろう。駅で降りた乗客は私のほか2〜3人。風はないが気温は東北と大差ないくらい低い。雪もところどころに残っている。

 駅を出ると重苦しい重機の音が背後の山から聞こえてきた。振り返って左岸の中腹を見上げると、山肌がざっくりとえぐりとられていた。国道の付け替えか、集落移転の造成か。

 国道をはさんで駅の反対側の『八ッ場ダム相談センター』という施設で資料をもらう。川原湯温泉の案内を手にした。このセンターが、八ッ場ダムにほんろうされた川原湯を暗示している。

経緯

 八ッ場ダムの資料から、まず経緯をさらってみた。利根川の改修計画の一環として、この地にダム建設計画が持ち上がったのが前述の1952年だ。そして実施計画調査がはじまるのは昭和42年(1967年)のこと。15年も経ってからである。この年月は強酸性の吾妻川の中和に要した年月で、15年もの間、ダム計画は宙に浮いていた、というより熟成されたといった方がいいだろう。味のよい味噌やワインをつくるがごとく、腹黒い政治家や官僚やゼネコンがこの巨大公共事業で末長くオイシイ思いができるように。

 (村民は)すぐさま反対運動の準備にとりかかった。群馬県吾妻郡長野原町東部の四大字すなわち、川原湯、川原畑、林、横壁の村民が第一小学校の校庭に集まって反対大会を開いたのは、水没宣言から数日後のことである。(中略)しかし建設省からは何の反応もなかった。大会後しばらくは、ダムの話が交わされたが、次第にダムの話は人々の口の端から消えていった。そして人々はダムのことなど忘れ果ててしまった。

 再度の水没宣言が村人に告知されたのは、それから13年も経った昭和40年(1965年)の3月である。

 群馬県企業管理者である落合林吉が川原湯に来て村民を集め、その場で「ダムを造るので承知してもらいたい」と言い渡した。この言い渡しを聞いて、村民は全員がっくりとしてしまった。(中略)この時、村民の心を占領したのは、「もう駄目だ。水没は免れえない」といった重い絶望感だった。

 国土交通省(旧建設省)直轄八ッ場(やんば)ダムは重力式コンクリートダムで、堤高131メートル、堤長336メートル、堤体積160万立方メートルである。総貯水容量は1億0750万立方メートル。主な用途は洪水調節で、水道用水と工業用水確保がこれに加わる。農業用水は目的にはない。完成すれば、この日に私が訪れた川原湯温泉地域をはじめ、ダムサイトからおよそ5キロ上流にわたって5地区342世帯が水没・移転を余儀なくされる。

 計画が明るみになり、現地では激しい反対運動が展開されたものの、昭和55年(1980年)の12月を境に、川原湯はダム受け入れに流れてゆく。『八ッ場ダムの闘い』では“ダム後”をにらんだ「まちづくり研究会」の発足の模様が綴られ、「経緯」には群馬県長野原町に対して「生活再建案」「八ッ場ダムに係る振興対策案」などの提示がなされたとある。

温泉街から街道へ

 車道も歩道もせまい国道は車がひっきりなしに走るから危険極まりない。しかしここはダム水没予定地。拡幅・整備などするはずもない。

 川原湯温泉入り口のアーチをくぐり、山手へ延びる坂道を登っていく。街並みはダムの底に沈む運命にあってか、活気のかけらもない。標高600メートル、温泉街にはいり、各温泉宿の玄関をのぞいて見ても団体客の気配はなし。浴衣を着て散歩している湯治客の姿すらお目にかかれなかった。土産を買おうと一軒のお店に入ろうとしたが、出入り口にカギがかかっていた。

 おじいさんが荷物の整理をしている別の売店を見つけ、「ここに日帰りで休憩できるとこはありますか」と聞くと、向かいの共同湯『王湯』を指した。源頼朝が発見した湯という伝説があるとか。

 戸を開けるとおばさんがにこやかに歓迎してくれ、10畳ばかりの広間に通された。先客が一組。露天風呂で汗を流しておこう。無色透明でほのかに硫黄の香りのする熱めの温泉に、冷え切った体がじんわりと温まる。傾斜地に拓かれたしずかな温泉街は、どこか荒涼とした雰囲気につつまれていた。

 カメラやノートを携えて温泉街を散策してみた。川原湯温泉峡の最高地にある川原湯温泉神社。4年前に焼失したらしく、現在のは新築したものだという。インターネットでライブ中継しているそうだ。シジュウカラが鳴く木立ちのすぐ向こうで、道路工事の槌音が鳴り響く。

 そこから道は下りとなり、アカゲラヒヨドリの鳴く中を、凍結に滑らぬよう歩いていく。まもなく国道に出た。道路向かいの小高い場所にプレハブの八ッ場ダム調査事務所がある。そこからすこし上手に『やんば館』なる施設。50歳代とみられる女性が受付にいた。

 東北で建設がすすむ森吉山ダムや胆沢ダム建設地にあるのと同じ類のお決まりのダムPR施設であった。ただ、ここ八ッ場ダムは、住民の反対運動が激しかっただけに、反対住民たちとの妥協・合意に至ったプロセスも、あまり詳しくはないようだが紹介していた。さほど広くもないし。ちなみに『やんば館』も水没地にあるので、ほどなく解体されることになる。

 戸外に出て、さきほど着いた川原湯温泉駅前まで国道を下ってゆく。吾妻川の峡谷は、ここ川原湯温泉付近がいちばん険しい。ゆえにダム適地なのである。中和されているとはいえ、草津の排湯が流れる吾妻川に魚はいない。雪がそこかしこを覆い、四季をとおして渓谷を彩る裸のままの木々も、人々の営みを見つめながら年月を送ってきたろうに。

 国道に架かる千歳新橋を渡る手前で国道をそれ、線路ガード下をくぐってみた。桜の木が見えたから公園でもあるのかと思ったら、土台だけを残した建物の跡地であった。千歳新橋の中央から吾妻線とともに吾妻川峡谷を撮影してみる。

 そして川原湯温泉駅に。向かいにある『八ッ場ダム相談センター』は、ダムにより住みかを奪われる住民たちの相談窓口である。『八ッ場ダムの闘い』にある「生活再建相談所」がその前身であろう。この窓口の設置が、ダム受け入れへとつながるひとつの転機となったのである。

 温泉街入り口のアーチをふたたびくぐり、さきほどの『王湯』に戻る。すでに午後2時になろうとしていた。

苦悩のはてに

 私の知るダム工事とは、事情にかなりのへだたりがある八ッ場ダムだ。現地の人たちにダムのことを聞くことはしなかった。というよりできなかった。『八ッ場ダムの闘い』に、こんなくだりがある。

 いまこの地の人々は、誰ひとりとして自分たちの命運を左右するダムについて語ろうとはしない。
 沈黙、すなわち人々がダム問題に触れたがらないということは、果たしてどういうことであるか……。
 それはどうにもならない問題に直面しているということであり、話し合えば話し合うほど苦悩が深まるということである。
 人々の不安は心の底にくすぶって、人間を暗くしてしまった。それにしても耐えに耐えた人々の心にあるものは、依然として一日も早く自分たちを取り巻いている包囲網から逃れたいという一念であることに変わりはない。
 ……
 権力は、一見遠廻りにみえても、時とともに重圧と化してゆく。素朴な村人は相手の正体の何たるかも判断できず、一方的に追い込まれる。

 八ッ場ダムはすでに周辺工事が佳境に入っているが、本体はまだ手付かずだ。住民もこのとおり、現地にとどまっている。しかし早晩明け渡しが行われるだろう。

 さまざまな曲折を経て着工にこぎつけた八ッ場ダムは、近年になってその必要性に異議が唱えられだした。下流域の自治体で上水道事業から撤退の動きが出はじめ、治水の有用性についても基本高水の設定など、国土交通省のやりかたに疑問の声があがっている。

 住民たちはこの40年もの間、筆舌につくせぬ苦渋を味わってきた。そして出した結論がダム受け入れである。

 八ッ場ダム事業が揺れている。