青秋林道弾圧事件――秋田県八森町

『八森町誌』(続編)

八森町誌』(続編)を取り寄せる

 「平成の大合併」で全国の市町村が3分の1に減ったのは3年ほど前だが、合併前の市町村はたいてい郷土史を編纂し、分厚い書籍にまとめていた。「○○町史」「○○村郷土史」などなど、大き目の図書館へ行けば、地元はもちろん、近接する市町村の郷土史書の類いが、たいてい置いてある。

 その多くは1980年代につくられたもの。教育委員会が中心になり、郷土史家が取材・資料を提供し、歴史・自然・行政などの各分野に分かれて、それぞれの担当者が執筆し、本に仕上げてゆくのが一般的であった。

 ヘイセイの大合併後、こうした郷土史は、大半が過去の遺物となりかけている。たとえば、あらたに誕生した秋田県Y市は、核となったY市はじめ、I町・O町・M村が合わさったものだ。いずれの自治体も郷土史を発行してあったのだが、合併してしまったため、I町などの町名は地図からも電話帳からも消えうせるから、したがって郷土史書の存在意義が薄れてしまうことになる。

 それでも、○○市に吸収される以前のI町を知りたい向きもあろうが、古い郷土史を合併前のI町を知る手がかりにはできても、合併後のI町を知ることはできない。I町という自治体は、もはや存在しないからである。

 Y市は、もしかしたら「新・Y市郷土史」を発行する日がくるかもしれない。合併後はもちろんだが、旧Y市時代の古い郷土史を編纂・出版した後の流れなども、それに追加することができる。だがI町・O町などは、それがかなわない。せいぜい新Y郷土史に合併前の自治体として名前が連なる程度だろう。

 平成の大合併は、たくさんの小自治体の未来を奪ってしまった。ふるさとを愛し、郷里に愛着をもつ人々は、郷土史というかたちで、後世に遺されるであろうデータ上のふるさとの姿を知るすべを失った。

 そんな自治体のひとつに秋田県八森町がある。

 八森町は2006年に、隣接する峰浜村と合併し、八峰町(はっぽうちょう)となった。合併前の2004年9月、八森町は、先に書いた「新・郷土史」を発行してある。

 「八森町誌(続編)」である。

 この『八森町誌』(続編)は、平成元年以降の町の通史を辿ったものであり、政治・経済・産業・教育・文化・民俗など各分野の貴重な記録であります。
(同誌「発刊のことば」=加藤和夫・八森町長=から)

 私の町と八森町とは、タテに長い秋田県の両端にあるので、同じ秋田においてほとんど交流らしきはない。しかしこの八森町は、私にとってどうしたって関心を抱かざるを得ない町であった。2007年7月14日の日記にも書いたが、世界自然遺産白神山地に隣接する町であり、「政治・経済・産業・教育・文化・民俗」など、いろいろな面で注視すべきところがあるからだ。

 八森町があらたに郷土史を発行したという報せは4年くらい前に新聞記事で読んだ。その中に、かつて青秋林道建設の急先鋒となった自治体として、林道建設問題が総括されている、みたいな記述があったと記憶している。

 それはどんな内容だろう――と、ずっと気になっていた。

 地元の図書館には『八森町誌』(続編)は置いてないので、図書館を通じて秋田県立図書館から同書を取り寄せてもらい、7日に届いた。いま読み終わったところである。以下に感想を書く。

隠された事実

 まず要約から。全673ページのうち、「第三節 八森町白神山地世界自然遺産」と題して白神山地に触れた箇所は59ページにわたり、かなりの分量を割いてこのテーマを扱っている。

 目次を拾ってみる(大・中見出しのみ)。

第三節 八森町白神山地世界自然遺産
一 白神山地の概要
二 青秋県境奥地開発林道建設計画
三 青秋林道建設反対運動
四 白神山地の総合調査
五 自然環境保全地域の指定
六 白神山地の一部世界自然遺産に登録
七 秋田白神自然ふれあい構想

 このうち、「七 秋田白神自然ふれあい構想」の小見出しを引用する。

(一)八森町、環境教育推進モデル町となる
(二)「森とともに生きる」構想
(三)白神山地エコーリズム構想
(四)白神探検隊交流活動推進事業
(五)秋田白神ふれあい構想
(六)八森町観光総合計画
(七)第四次八森町総合振興計画(後期)・第五次八森町総合振興計画(前期)
(八)活動の成果

 ここを見たとき、ある種の予感が的中したことを確信した。昭和・平成の時代、郷里にて起こった大弾圧事件。戦前戦中ではなくごく最近、実際にあった、官民一体となった個人への集中攻撃。そのほとんどすべてが、きれいさっぱり忘れられ、葬り去られようとしていることを、である。

 加害者は自分のやったことを忘れたがる。隠したがる。なかったことにしたがる。自分のやった犯罪が大きければ大きいほど、卑劣であればあるほど、その罪の大きさの前に良心の呵責がうずき、これを逃れるべく、事実のあらゆるを抹消しようとする。

 あまつさえ正当化しようとさえする。それは被害者や関係者が死んだ後によく行われる。死人に口無しだ。悪いのは被害者で、自分らは悪くない、当然のことをしたまで。そんな命令はしていない、部下が、現場が勝手にやったこと。あの時はああするより仕方がなかった、他所でもやってることだ、もういいじゃないか、もう昔のことだ、お互い水に流して忘れようじゃないか、と。

 八森町もご多分に漏れず、上に書いた論理で、自らがやらかした「加害」を葬り去るべく、この『八森町誌』(続編)を編んだ。

 では、その驚くべき中身を紹介しよう。

 「一 白神山地の概要」で白神山地の由来や地形・地質・生息動植物などをおさらいしたあと、「二 青秋県境奥地開発林道建設計画」から、いよいよ問題に立ち入ることになる。青秋林道がいつ、だれによって、なんの目的で、どういった経緯で発案されたのかを淡々と述べ、その“効果”がいかなるものであるかを、当時の見解そのままつづられている。よく引き合いに出される、八森町議会における以下の答弁も書かれていた。

 森林資源の開発は両県を合わせて考えているのか?
  利用区域内の森林資源の面積及び蓄積量は次の通りです。
  秋田県
    面積  1,667ヘクタール
    蓄積量 232,847立米
  青森県
    面積  3,589ヘクタール
    蓄積量 380,745立米
  これらの資源は、青森県は青森営林署管内、秋田県は秋田営林署管内と所管が違いますので一緒ということはできませんが、資源の伐採搬出につきましては、青森県の木材であっても秋田県に近いものであれば、その資源は、こちらの方へもってこれる。
  状況によっては利用されるということをご理解願いたい。

 太字にしたところ、ようするに八森町は、林道建設の名目で、青森側のブナ略奪をもくろんでいたのであるが、これについてはあまり詳しくは書かないでおく。

 工事計画が明るみになると、藤里町の鎌田孝一氏の見解が出てくる。「自然保護の立場から林道建設は反対である」との新聞記事の談話を、そのまま載せている。対して「八森町のいち住民の意見として」林道建設賛成意見も掲載されている。これは画期的であると思った。林道建設反対と賛成意見、どちらも相当の分量でもって紹介し、編集者が平等意識をもって作業にあたっていたことがうかがえるからだ。

 ではその「八森町のいち住民」とやらの意見を貼っておこう。

 「県北部の過疎化は、一般地域住民にとっても極めて重要な関心事である。今から二四年前、わが八森町は県北部辺境の地勢的見地から、青秋林道(八森―弘前間)貫通こそ将来の発展のカギであると判断、専門家の意見を聴き、調査団を編成して青秋林道を踏破した。このことは、青秋ロッ骨道の貫通が地域住民の以前からの悲願である証左である。(中略)
 青秋林道は、単なる森林資源開発のみのものではないと聞くが、その開設に当たっては、あらゆる視点から十分な検討を加え、特に自然保護との調整が、現在の開発技術から必ず可能であることを確信をもって強力に推進されることを期待するものである。
 最後に、特に強調したいが、自然を放置することは、自然を守ることではない。自然の恵みを巧みにいかし、自然と生活の調和をはかるのは、そこにとどまり、そこに住む者でしかあり得ないと思う」(北羽新報)

 強調するが、これは「八森町のいち住民の意見」だと『八森町誌』(続編)では紹介している。「八森町のいち住民」なんて、なんだか街かどで無作為に選んだ住民にマイクを突きつけて意見を言ってもらったようなイメージを抱くが、八森町では、そこいらの住民が「今から二四年前、わが八森町は県北部辺境の地勢的見地から…」なんて喋り出すのか。

 ここまで踏み込んで切々と述べた林道建設賛成意見は、どう考えても町民を代表する役職にある人間の発言である。地元では名を知らぬ人のいない責任者であるはずだ、それを「八森町のいち住民の意見」などと匿名にした『八森町誌』(続編)編集者の見識をまず疑う。ソースも「北羽新報」とだけ表記し、日付すらも載せないところは、あくまで林道建設賛成は「八森町のいち住民の意見」に過ぎず、多くの町民は林道に賛成していなかったのだと言いたい編集者の姑息さがにじみ出ている。林道建設は「八森町のいち住民」どころか大半、町当局はもとより、住民100パーセント近くの意見なのだが、編集者はその事実を隠そうとしたのだ。

 なにより許しがたいのは、「自然を放置することは、自然を守ることではない」と抜け抜けという、その「自然」とは、八森町の自然では断じてなく、藤里町の自然であり、青森県鯵ヶ沢町の自然なのである。「自然の恵みを巧みにいかし、自然と生活の調和をはかるのは、そこにとどまり、そこに住む者でしかあり得ない」というその人は、自前のブナ原生林をスッカラカンに壊した八森町であって、原生林の残る藤里町民でもなければ鰺ヶ沢町民でもない。

 いま一度お聞きしたい。「そこにとどまり、そこに住」んでいたアナタ方は、八森町のブナ原生林にどんな仕打ちをしましたか? ことごとく破壊したのではなかったか。またはそれを許したのではなかったか。そしてもう破壊する自然がなくなったとみるや、他所のブナ林に目をつけ、「お前のところのブナを寄越せ」と言う。厚顔にもほどがあるのではありませんか。

世界遺産登録では蚊帳の外

 さて、反対運動と推進運動が展開しつつ、工事は着工し、秋田県も建設促進を表明する。ひとつの転機ともなったブナ・シンポジウムまでの動きを『八森町誌』(続編)は淡々と追ってゆく。沢渡俊ルポライターの後藤茂司八森町長インタビュー記事や、工藤父母道・日本自然保護協会主任研究員の論考、本多勝一朝日新聞記者のルポを、長文にわたって掲載しているところは、郷土史編集の常識を破るほどの快挙といえる。この点は評価したい。結果として青秋林道は中止となったのだから、その伏線を編集者は貼った、あるいは貼らざるを得なかったのだろう。青秋林道反対運動が、田舎の小事から大きなうねりへ発展し、秋田県の枠を飛び出て全国的に盛り上がっていった。全国から注目を浴びることとなった八森町が、こうした編集を選んだのは、むべなるかなと言える。

 100ページ「白神山地の総合調査」の項ではこんな書き出し。

 こうした中、地道な調査活動が継続されており…

 調査や取材に訪れた学者や記者たちを、工事用車両でふさいで妨害した事件があったが、それは措こう。102ページでは図解を示し、客観的なデータ収集の事実をわざわざ挙げて、白神山地は残すべきもの、と印象づける。これは「地道な調査活動」の結果であると、あたかも初めからわかっていたことのように。

 そしていよいよクライマックス。青森県側の国有林の水源涵養保安林解除、つまり原生林突入寸前の急展開を、『八森町誌』(続編)はこんなふうにつづる。

 そうした中、青秋林道工事はいよいよ、国有林に取りかかるべく水源涵養保安林解除の申請をしていたが、一九八二(昭和五七)十月一二日、農林水産大臣鰺ヶ沢町内の保安林2.9ヘクタール(青秋林道1、6キロメートル分)の解除予定を青森県知事に通知した。
 これに対し、自然保護団体は13,202通の異議意見書を青森県を通して農水省に提出した。これは政府に対して提出した意見書としては史上最高の数となり、自然保護の高まりが、青秋林道問題を通して全国的規模に広がった様子がうかがえる。
 これを受けて先ず青森県知事が青秋林道建設に消極的な発言があり、ついで秋田県も青秋林道建設に対して断念の意向が広がり始め、一九八九年(平成元)年八月、青森・秋田両営林局は白神山地森林生態系保護地域設定委員会を発足させた。翌年三月二〇日最終決定案を林野庁に上申し、同月二九日に林野庁白神山地森林生態系保護地域設定最終案を承認した。これにより青秋林道の建設は正式に中止となる。

 「自然保護の高まりが…全国的規模に広がった様子がうかがえる」とは、全国的規模に広がりゆく青秋林道建設反対の声を、最後の最後まで無視し、あくまで林道建設にこだわり抜いた八森町だからこその抵抗的記述であろう。せまい町で私利私欲に走り、血縁地縁すべて動員して林道建設ブナ略奪に血眼になった八森町は、「全国的規模に広がった」「自然保護の高まり」を、認識するどころか「うかがえる」だけで精一杯だったのだ。マスコミであれほど報道されていながら、白神山地の自然なんてたいしたことない、青秋林道建設すべき、青森のブナを横盗りすべし、と叫びつづけていたのだ。

 まさにヘドが出る愚劣さ。なんという無様さ加減か。それにしても異議意見書提出の1982年と、森林生態系保護地域設定委員会発足の1989年、この7年間を完全空白状態に置いた編集者のセンスが笑える。

 その後白神山地ユネスコ世界自然遺産に登録されるわけだが、これに八森町自治体として一切かかわっていない。八森町には世界遺産に値するブナ原生林が存在しないのだから当然ではあるが、105ページ「六 白神山地の一部世界自然遺産に登録」という大ニュースを、わずか1ページ足らずで締めているのが象徴的だ。その書き出しというのがこう。

 自然保護団体は森林生態系保護地域となってもいつ解除になるかもしれない不安があり、世界遺産に登録するべく活動を行った。

 主語が「自然保護団体」だから、世界遺産登録、それも日本で初めてという世紀の快挙に、八森町という自治体は1枚も加わっていないわけだ。青森県鰺ヶ沢町(最初は藤里町)のブナ略奪を阻止され、世界遺産登録にも蚊帳の外に置かれた。ここまでくると哀愁さえ感じてしまう。

 ただし秋田県人はしたたかである。八森町は特段に打たれ強かったりする。なぜなら世界遺産登録を、どの町より最大限、利用しているからである。おのが町では一畳とて登録されていない世界遺産を、わが町の宝と。106ページからの「七 秋田白神自然ふれあい構想」では、14ページにわたって、世界遺産白神山地を中心とした町おこしプランや構想・事業計画・活動内容を提示し、その成果を強調している。おやおや、ご立派なことで、というほかあるまい。

 そして「第三節 八森町白神山地世界自然遺産」の締めくくりの言葉が、こう。

 世界自然遺産として白神山地の一部が手つかずに残った意義は大きい。(119ページ)

 またまたご冗談を、と言いたくなるのである。

想像を絶する弾圧が行われていた

 以上、『八森町誌』(続編)の白神山地にかかわる節を、私見をまじえて要約した。

 全国的規模へ発展した青秋林道反対運動、自然保護の高まりは、たしかにこの林道工事が発端となり、巨大なエネルギーとなって秋田・青森の山間部を旋風に巻き込み、最後には林道工事を中止に追い込んだ。地元の八森町は、地域振興という目的をくじかれた失敗者で終わったわけだが、全国に広がった反対運動でも、はたして地元八森町に、林道反対の声は、なかったのか。

 いたのである。八森町にも青秋林道建設反対の声をあげた人が。その人は秋田豊という人。秋田さんは地元で孤軍、青秋林道建設事業に立ち向かったのだが――。

 では、ここで本文でも出てきた鎌田孝一さんの著書『白神山地を守るために』(白水社)から、ある一文を引用し、ひとつの事実を示しておく。

 白神山地のブナ林を守るための保護運動に立ち上がった私たちを支援し、同時に八森町の自然を守るためにと保護団体を結成し立ち上がった秋田豊君は、地元町民の嫌がらせや建設業からの圧力、町からはもちろん、最後には村八分の手痛い仕打ちを受け胃潰瘍で入院せざるを得ない羽目におちいった。そしてついには、保護団体も消されてしまうという状況であった。

 秋田豊氏の名前は『八森町誌』(続編)にはほとんどまったく見当たらない。わずかに歴代町議の一覧にその名があるだけ。現地の白神ガイドとしてけっこう知られた存在なのに、なぜ町誌では触れられないのか。

 自然保護運動をつぶされた敗者だからではない。弾圧の被害者だからである。

 だれが弾圧したのか。

 八森町である。ほかならぬ町当局であり、ほぼすべての町民であり、秋田さん以外のすべての地元民が、秋田さんをよってたかって、すさまじい攻撃を加えたのだ。

 たったひとりの勇気ある目覚めた有志を、町・町民、官民すべて挙げて、徹底的に叩き、封じ込め、最後は再起不能なまでに追い込む。

 これが、八森町・青秋林道弾圧事件である。鎌田さんの著作では詳しいところまではわからないから、秋田さんが自著を出版してくれればとも思うけれど、そのような気配はない。私もいつか秋田さんを取材したいと思いつつ果たせそうにない。この拙文を読んだ人で、地元紙の記者などプロのライターがいたら、ぜひ実現してほしいのである。

 白神山地は救われ、世界遺産となり、世界最大級のブナ林は守られた。八森町世界遺産ブランドを利用するのは悪いことではない。だが、それには過去の反省ないし総括がともなっていなければならない。八森町はそのもっとも大事な作業を怠ったままである。

 2004年、八森町など7市町村の合併協議会で、新市名を「白神市」とすることが決定したことがあった。この命名に青森側はもちろん、秋田県内からも批判の声が集まり、これに対し合併協の委員はこのように話した。

 「(白神という)ネームバリューに頼るのが批判されることなのか」

 このメンバーが八森町の人物かどうかはわからないが、かつて八森町白神山地をハゲ山にしようとした(八森町白神山地はとっくにハゲ山状態)。メンバーの答弁は、過去の反省が皆無であることの証左であろう(この合併はその後頓挫し、合併協議会は解散、八森町峰浜村と合併し八峰町となった)。

 秋田さんの話に戻る。二十世紀終盤に、ふるさと秋田・八森町で起こった大弾圧事件の被害者・秋田豊さんは、ほんとうの意味で郷土が誇るべき人物だった。だが八森町は、この顕彰すべき人物を完全に黙殺し、史料から抹殺し、歴史の闇に葬り去ることを選んだ。『八森町誌』(続編)に秋田さんの名前がないことが、その証拠である。

 先にふれた異議意見書で、直接の関係者かそれに近い人の提出者数を上げると、直接の関係者では青森県鰺ヶ沢町民が1000通あまり。それに準ずるといえる秋田県藤里町民が提出したのは200通ほど。八森町民は、いったい何人が提出したのか。

 2通だという。まさに驚くべき超ファシズムである。八森町は戦前の日本同等に、町民すべて、狂気に支配されていたのだろうか。

 『八森町誌』(続編)の巻末には「八森町編集委員」9名が顔写真入りで掲載されているが、異議意見書を提出した八森町民2名に、この9人のだれも含まれていないことははっきりしている。意見書を提出すれば「地元町民の嫌がらせや建設業からの圧力、町からはもちろん、最後には村八分の手痛い仕打ちを受け」るだろうし、町史にたずさわる役職に就くなど埒外だからだ。

 最後に、奥村清明著『白神山地ものがたり』(無明舎)から短く引用する。

 秋田さんの存在がなかったら、八森町の人たちは、運動が一段落してからの白神山地について、語る資格などなかったのではないでしょうか。