安倍宗任に関する覚書

 いま読んでいる金野靜一著『新・みちのく物語 ――前九年・延久・後三年合戦――』(盛岡タイムス社)より,私がこのブログでたびたび挙げてきた安倍宗任安倍貞任の弟。安倍首相の祖先といわれている)について,ここで覚書をしておく必要が出てきた。

 本書「新・みちのく物語」は,副題のとおり前九年・後三年の両合戦を史実に沿って解説したものであるが,この中には安倍宗任のその後――前九年の役以降――がかなり詳細に描かれているのである。

 すでに読み終わった中公新書の『蝦夷の末裔』(高橋崇著)も同じテーマで著されたものだが,史料が豊富な反面かなり難解で,私のごときでは正確に理解することの難しい箇所がいくつもあり,とくに知りたい部分が淡白に描写されるなど,私としては消化不良の感が否めなかった。しかしこの「新・みちのく物語」はその点平易でわかりやすく,昔のやりとりをいまの言葉に置き換えるなど読者への配慮も散見され,“入門者”からするとまことにありがたい本である。

 なかでも安倍宗任のことがかなり詳しく書かれているのは新鮮であった。

 かねてから私は安倍宗任を「蝦夷の誇りをかなぐり捨てて朝廷に尽くした日和見主義者」などとこき下ろしたが,実態はそうではなさそうなのである。すくなくとも,子孫の安倍晋三氏よりははるかに人間性あふれ,尊敬できる人物であったようだ。安倍首相のような唾棄すべき面はないといっていい。

 本書はまだ半分くらいしか読んでいないが,宗任の件の要約をいまのうちに覚書にしたためることで,早めにこの誤解を修正しておこうと思う。

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 1062年,前九年の役も大詰め,厨川の柵に火を放たれる。柵は陥落し,安部貞任と藤原経清(藤原清衝の父)はあい前後して源氏・清原連合軍に捕らえられ,源頼義・義家親子に惨殺される。

 東北の豪族・安倍氏滅亡の瞬間である。

 安倍軍の武将も多くは戦死または捕らえられる。隠れていた宗任も投降した。

 宗任は,ただ自身の助命を乞うため投降したわけではなかったようだ。自分が身を潜めていては,他の安倍家一門が,自分の代わりにつぎつぎに殺されてゆく。あまりに忍びないということで自ら名乗り出たのであった。宗任と同じく逃げ隠れていた伯父の安倍為元・弟の家任など身内10人ほども投降したのは,宗任が説得したためだという。

 これだけでも宗任は,「蝦夷の誇りを捨てた」「日和見」とは別次元の人格だったことがわかる。

 生き残った一族を引きつれてみずから捕虜となった宗任は処刑を免れ,1064年3月に頼義に伴われて都へ身柄を送られかけたが,朝廷の命により都へは入れず,伊予国(愛媛)へ送られた。

 宗任のうわさは四国・伊予の国にも知れ渡っていたという。遠い東の蝦夷の地で朝廷・源氏軍を苦しめた豪将。その多くは蔑み・野蛮人との評判であったが,尊敬と畏敬の念を抱いていた民衆も少なくなかった。宗任は3年ほど伊予に滞在させられたのち,頼義は四国では都合が悪いと思ったのか,ほどなく九州へ宗任を移送したそうだが,四国や九州では安部氏の子孫を名乗る旧家がかなり多いという。宗任の足跡がうかがえる現象であろう。それもかなり好イメージの。

 よく知られたエピソード。1064年2月,京へ移送された宗任の顔先に,心ない公家が梅の小枝を差し出し,「みちのくの国ではこんな美しい花は見たこともないだろう」と問うた。

 これに対し宗任はこう詠んで返したという。

 「わが国の梅の花とは見たれども大宮人は何んといふらむ」

 宗任を蝦夷の野蛮人・田舎の武将と蔑視していた民衆の先入観を覆す一幕だった。

 伊予に島流しにされた宗任には,朝廷より任務を与えられた。私欲をむさぼっている長者を取り潰すこと(よくわからない任務だが)。宗任は任務を果たすべくつぎのように説得した。「凡は凡にして凡ならず」「智にして智ならず」「武にして武ならず」。穏便に,粛々と実行し,宗任は次第に人望を集めていったという。

 こうした宗任伝説は四国・中国・九州各地に残っているという。本書ではこのように解説している。

 …「宗任」を取り上げてみたところ,その史跡・業績等の分布は,異常とも思われるほど広範囲に及んでいることが分かった。(略)いまなお『宗任は,わが始祖』と称している人もまた,少なくないのである。
 各地に残る伝承の類も,安倍氏は武勇にすぐれているばかりでなく,教養をも兼ねそなえた武将として描かれているのである。特に宗任の場合,それが顕著であった。

 そして本書『新・みちのく物語』では宗任について,つぎのように結んでいる。

 それにしても「宗任人気」は,実に広範にあまねく定着したものと感服せざるを得ない。

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