南部家当主の死去に思う

 みちのくの蝦夷抵抗は、八世紀はじめころから始まり、およそ400年にわたって、蝦夷たちは渡来大和政権を相手に戦い、やがて敗れた。大和朝廷武家政権の意のままになることで、みずからの生活と暮らしと尊厳を保つ道を、祖先は選んだ。

 失意のうちにかすかな希望をもとめ、蝦夷の末裔たちは、自分らの土地でふたたび楽園を築くことを誓った。

 岩手・北上山系は冷涼なところだ。雨は少なく、夏はすずしく、冬の降雪も少ない。空気はいつも乾燥していて、気温の低下は半端なものではない。

 住民たちはここで雑穀を栽培していた。ソバ・ヒエ・アワ・キビなどは、冷涼な気候でも育ち、栄養価も高い。また雑穀の藁は、牛馬の良質なエサでもあり、南部駒に伝えらえれる岩手産の馬は、これを原動力に生産されていた。

 そこへ、鎌倉政権の意を受けた南部の殿様がやってきて、稲作を強要した。

 北上山地の山を切り開き、田をつくって、イネを植えさせたのである。

 それが、つごう300年間もつづいた悲劇の始まりであった。凶作による飢饉の続発である。

 餓死・人肉食い・間引き・娘売りetc…

 天明の大飢饉では、南部藩にて4万人以上が餓死したと伝えられる。越境して秋田藩に逃れてきた人もいた。それらのほとんども野垂れ死にしたという記録が残っている。

 ヤマセに知られる海からの冷たい風が、イネをことごとく灰燼と変えた結果である。そのような風土を無視し、幕府の意ばかり住民に押し付け、膨大な餓死者を出した張本人、それが「南部の殿様」なのである

 当然、一揆が頻発した。幕藩体制をゆるがした三閉伊一揆はその代表であるが、自らの命と生活を守るために蝦夷の後裔は立ち上がった。幕府も藩主も住民の要求を受け入れざるをえなかったが、そこへ至るまで、どれだけの蝦夷たちが、食べ物を求め力尽き息絶えたことか。

靖国神社宮司の南部利昭さん死去
 南部 利昭さん(なんぶ・としあき靖国神社宮司)が7日、虚血性心不全で死去、73歳。通夜は11日午後6時、葬儀は12日午後1時から東京都新宿区南元町19の2の千日谷会堂で。喪主は妻節子さん。
 旧盛岡藩主・南部家45代目の当主。神職経験はなく、大手広告会社に約25年勤めたあと、04年9月に靖国神社の第9代宮司に就任した。
http://www.asahi.com/obituaries/update/0108/TKY200901080079.html

 岩手の民衆、万のケタに達するひとびとを死に至らしめた南部家の末裔が死去したというニュースは、けっこう大きな扱いで全国へ報道されたが、その中身は、亡くなった本人に対する惜別と哀悼に加え、その人柄をしのぶといった通り一遍の内容で締めくくられていた。

 南部家といえば、始祖は甲斐源氏である。後三年の合戦で活躍した源義光(義家の弟)が祖先とされている。秋田藩の佐竹氏と同じだ(源氏ということは、ルーツをさらにさかのぼれば朝鮮半島百済にいきつく。そう、渡来人である)。佐竹氏についてはいまは触れないが、南部の殿様が岩手で行った数々は、訃報記事では当然ながら、いっさい語られない。

 日本では死者を嘲ることはタブー視されている。死んだひとの悪口は、決して言ってはならないことだ。だから私もそれに倣いつつも、蝦夷の末裔として、忘れてはならぬ事実を、この機会に書き記しておいた次第である。