『炎立つ』を読んで

 ユネスコ世界文化遺産に登録が期待され、この7月にも正式に可否が発表される平泉を舞台にした『炎立つ』を、いまさらながら読んでみた。

 NHK大河ドラマの原作であり、平安時代の東北で起こった戦乱と政治の駆け引きが、5巻にわたってまことに痛快に小気味よく描かれて、もはやわが国屈指の文豪となった小説家・高橋克彦の力量にあらためて瞠目しつつ――その反面、「作者の視点」というものを、はからずも思い知らされてしまう結果となった。おなじ蝦夷を描いた『火怨』では気づかなかった、高橋克彦の欠如した部分を、である。

 この『炎立つ』は登場人物が、むろん蝦夷が主である。安倍貞任藤原清衡、藤原泰衝に、大和朝廷側からは源頼義・義家・頼朝・義経などなど、これにカギを握るキャラクターとして藤原経清も加わり、それぞれがそれぞれの代表となり、真の王者を目指す戦いと駆け引きの連続。あたかも甲子園で頂点をめざす高校野球のごとく。

 読者はどちらかを応援しなければならない。どっちが勝っても負けても恨みっこなし、みたいな。まさに甲子園での試合を観戦しているような心境であった。安倍・藤原一族も源氏も“代表選手”であり、選び抜かれたエリートなのだ。だが、そこが、高橋克彦という大小説家の「決定的な視点の欠如」を象徴しているのである。

 安倍氏蝦夷であり、陸奥国をまとめる大豪族である。源氏は大和朝廷の下手人であり、公卿に操られ、これに抵抗しているとはいうものの、武家の総大本締めである。

 つまり、どちらも平民には手の届かない、一生がんばっても追いつけないトップ。

 たとえば安倍氏を頂点とするなら、そのピラミッドの底辺にはどんな層の、どんな人々がいるだろう。

 それは安倍氏とおなじ蝦夷であることは確か。だが安倍氏とは雲泥の差である。深山で狩りをしているかもしれない。浜辺で海草を拾っているかもしれない。村外れで草鞋を編んでいるかもしれない。田畑でアワやヒエを栽培しているかもしれない。それがその人たちの生活であり、生きる術であり、守り抜いてきた誇りなのだ。安倍貞任が馬にまたがり、指揮を執り、刀を振るうのとはまったく違うけれど、生きるための手段として、なんら変わるところはない。

 高橋克彦は、そうした「底辺」の人たちを、どう描いてくれたか。蝦夷の思いを作品に投影することにかけては右にでる者がいない高橋は。

 まったく描かなかった。なぜか。見えない存在だからである。

 底辺の人たちは、安倍氏と同じ東北に住み、そこで必死に生きようと、力を振り絞る蝦夷であることは明白なのだが、高橋克彦の目には1ミリも入らなかったのだ。1ページどころか1行たりとも、そうした人物は登場しなかった。名前すら与えられなかった。存在すら明かされなかった。

 これが高橋克彦の「視点」なのだ。高橋作品において、底辺の人たちは、活躍する機会を永遠に与えられないのであろう。

 強い者が勝つのは気持ちいい。それが贔屓であればなおさらだ。弱いものは敗れ去り、挽回を期した結果、強い者に打ち勝てば、さらに胸のすく思いを味わえる。

 だが、強い者の影にいて、強い者を支える弱者や下手人が浮かばれることはない。それが小説であれば望むべくもない。ましてや底辺層の人々になぞ、金輪際、焦点が当てられることはありえない。

 最終巻「伍・光彩楽土」の解説は井家上隆幸氏。尊敬する書評家だが、やはりこうした限界には触れていない。当然かもしれないが。

 高橋克彦陸奥三部作のしんがりに『天を衝く』があるが、作者の限界というか視点を見切ってしまったからには、関心はすっかり消え去ってしまった。

 願わくば高橋克彦さんには、成功物語でなくてもいいから、読者を元気にさせなくてもいいから、ちょっとくらいは社会派の作品を、蝦夷を中心にして書いてほしいのである。ときどき新聞を飾る高橋さんのコメントや論評は、社会批判・体制批判じみた発言が少なくなく、そのほとんどが賛同できるものだ。きっと本音では「このままでいいのだろうか」と、高橋さんは感じているにちがいないから。

炎立つ 伍 光彩楽土 (講談社文庫)

炎立つ 伍 光彩楽土 (講談社文庫)