英雄の名は自然に帰す

N川源流・唐松沢


 5月25日の日記で私はこう書いた。

 岩手がうらやましいな。だれもが誇りに思える偉大な先人がいて,それが近世の政治家とか軍人とか学者とかスポーツ選手ではなく,遠いはるかな昔の,古代東北の先住民・蝦夷のひとりだったなんて。秋田にはいないのかね,アテルイほどじゃなくてもいいから,秋田県民がこころから誇れる蝦夷の英雄が。

 田牧久穂著『元慶の乱・私記 古代秋田の住民闘争』(無明舎)を読み終わって、静かな感慨に浸るとともに、わが郷里秋田にもたしかに存在した、蝦夷の英雄に思いを馳せる。

 「元慶の乱」は878年(元慶2)に勃発。大和朝廷の苛政に苦しむ先住民・蝦夷が、折からの飢饉・地震に見舞われてやむにやまれず、いっせい蜂起して出羽国・秋田城を攻撃した事件である。史実をもとに(主に続日本紀)、著者が緻密な思考と状況判断を重ね、高度な論理と推察でもって、いまから1129年前の郷里になにが起こったかを詳細に報告している。

 続日本紀も三代実録も、朝廷がおのがルーツにあたる中華思想を持ち込んだだけの、捏造史でしかない。彼・彼女らは自分たちの都合のよい事実や迷信はそのまま記録するが、都合の悪い事実は書き換えたり捏造したり、闕史(闇に葬り去る)にしたりする。その中で続日本紀は、朝廷の目でみた元慶の乱の、ほぼ一部始終が時を追って描かれており、実態はつまびらかでないにせよ、田牧さんは表面的な事象から、深層深部を見事にえぐりとることに成功した。

 本書はその集大成である。これほどの力作が刊行されていたなんて。

 わが愛する秋田の蝦夷も、決して朝廷に卑屈に媚びる隷属者ではなかった。それが1129年前に証明されていた。陸奥国(岩手)のアテルイ・モレに匹敵する英雄が、秋田にも確かに、いた。

 それはだれか。本書を読む一番の動機はそこにあった。本書から引用する。

 (藤原)保則は、いかにして(乱の)首謀者の名前を政府に知らしめぬようにするか、処罰者を出さぬようにするかに腐心するのである。保則と政府の、この駆け引きは、『三代実録』の欠史部分でなされておっただろうことは、ほぼ確実である。『実録』の闕史、つまり史料の欠落した部分が、乱時の後半にのみ存在する異様さが、このことを裏書きしている。それは、政府のさらす恥をも、同時に消去することであった。

 朝廷から派遣された出羽権守・藤原保則は、大和朝廷の命令をきかず、ほとんど独断で住民との話し合いをおこなった。それは基本的に敗戦処理であった。朝廷軍は負けたのだから、敵(秋田の蝦夷)のリーダーを罰することはありえないわけだ。引用をつづける。

 指導者は、住民に信頼され、支持されておったが故に、住民は彼を官に捕縛されることを、結束して拒んだのである。出羽国としては、処分どころか、逆に、この指導者に住民をなだめてもらわねばならなかった。
 (中略)
 政府とすれば、よしんば指導者(首謀者)が誰と知っていたにせよ、正史に記すことはできなかった。記せば人選の出鱈目ぶりを自らさらけ出すだけである。恥の上塗りとはこのことを言う。
 ただし、そのおかげで我々も、この顕彰すべき指導者の名前を知る機会を永久に逸してしまった。

 こういうことだった。呰麻呂(アザマロ)・阿弖流為アテルイ)・母禮(モレ)など、古代東北・蝦夷の英雄の名は1200年後のいまも語り継がれ、それぞれの地で郷土の誇りの象徴とされているが、わが秋田の真の英雄は、その名を歴史に遺すことを選ばず、大地へ、空へと還し、自然に委ねることを、祖先は選んだ。

 うーん残念。でもこれでよかったのかもしれない。

 本書『元慶の乱・私記』は、史料読み解き物としてすばらしい文献である。さきの高橋克彦著『火怨』のようにぜひ小説で読みたい。古代秋田を知るにこれ以上の素材はないであろうから。でも主人公がいない。ヒーローがいるのに、登場しない。小説化は無理かなあ。

元慶の乱・私記

元慶の乱・私記