奥州平泉

1062(康平5)年9月17日,藤原経清は,頭目安倍貞任とともに源頼義に捕らえられ,斬首の刑に処された。貞任の弟・重任も同様。

平安の東北・岩手で起こった前九年の役(1051―63)の終焉であり,安倍氏滅亡の瞬間である。

経清には息子がいた。清衝(きよひら)といい,このころ7歳。母は貞任の妹である。父親の経清は関東がルーツといわれているが,貞任の甥にあたる子だから,れっきとした安倍家の血を引く蝦夷男児である。

この藤原清衝こそが,のちの奥州藤原氏の始祖となる人物である。

清衝は母親とともに,東北の覇者となった出羽(秋田)の清原家に迎えられる。清原氏の長男・真衝(さねひら),次男となる清衝,三男・家衝(いえひら。母親は同じ)と暮らすことになる。父親の藤原経清と伯父の貞任を滅ぼすのに大きな役割を果たした清原家に,母とともに迎えられた幼い清衝にとって,その心境はいかばかりであったろうか。

3兄弟が成長したころ,清原家に内紛が起こる。後三年の合戦(1083―87)である。

またもやしゃしゃり出てきた源義家(頼義の息子)の協力を得て,争いは清衝の勝利となる。それはまた,出羽清原家の滅亡でもあった。

前九年の役では朝廷・清原連合軍に父を殺され,その後清原氏に引き取られ,こんどはその清原氏を,やはり朝廷の助けを借りて滅ぼす。前九年の仇を討ったといえぬこともない。いずれにしろ,東北の蝦夷・豪族は,このようにして大和朝廷に翻弄され,また漁夫の利を与えるがごとし,文化も資源も略奪されていった。

夷をもって夷を制す。蝦夷仲間同士で戦わせ,両軍疲弊を誘い,中央から大軍を差し向け,または物資や要職を与える。朝廷はこうして,わが郷土の「美味しいところ」を奪い取っていった。

東北の最終的な覇者となった清衝は,父の姓・藤原を名乗り,平泉に居を移す。こうして奥州藤原氏の始祖が誕生した。

 *

藤原清衝・基衝(もとひら)・秀衝(ひでひら)とつづき,栄華を極めた平泉。いまその平安の都市が世界遺産に登録目指して運動を展開している。

平泉は仕事で何度も訪れているが,世界遺産とはまたご大層な……と思った。中尊寺金色堂はたしかに歴史的・文化的価値は世界遺産にふさわしい寺院だけれど,庭園とか近場の周辺はまだしも,「平泉町」となるとね。どこにでもある小汚い普通の町だから。「世界遺産」となればかなり広い範囲で審査しないといけないだろうから,電信柱とか看板とか街並みとか,つまり景観の問題が大きかろうに。

まあ,わが遠い祖先・蝦夷が起こした都市が再生されるなら,とても喜ばしいことではある。応援しています世界遺産登録実現。