目安
こう思うのなら思えばいいし、こうすべきと言うならまず自分がすべきだし、こうあるべきというなら自分が率先して手本を示せばよい。
そうした姿をまず人々に見てもらって、それなりに認められれば、そのひとの主張は指示を得て、広がっていくだろう。
いわば実績。
学歴とか経歴とか資格じゃない、何をしてきたか、だ。
それを示さず、こうあるべき、こうすべきと言われたって、訴える内容がいかに立派でも、道理にかなっていても、あまり心に響くものではない。
長く生きていれば、たしかに人生経験は豊富であろうし、経験則からなるその人の主張は、一定の説得力があるかもしれない。
でも、意見を押しつけがましくまくしたてるのはどうだろう。主張するのはよいけれど、人が10人いれば意見も十通りある。その人の意見は十あるうちの一つにすぎないのだ。ほかの九つが、その人の意見に及ばないほど、その人の意見は傑出しているのか。では、それを判断するのはだれか。
何をしてきたか。それが目安になろうか。
かりにその人が、過去にすぐれた実績を残してきたとしても、他の九つの意見に耳を貸さず排除するようなら、減点せざるをえまいし、実績もなにもないなら、その人の意見こそ、だれも相手にしないだろう。
KY(空気が読めない)というか、協調性がないというか、ちょっと困ったひとというか。
いくつか、よそで、そんな話を見聞したことがある。われわれに限ってそうはなるまいと思っていたけれど、よくよく思いだせば、過去に似たようなことがあったな。
霧のかかる深い澱みにはばまれていた私たちに、あかるい光明が射したのは慶事であった。でも敵は、必ずしも向こう岸にいるとは限らないのであった。こちら側にもいると思ったほうがよさそうだ。