失望の『蟹工船』

 昨年12月2日にも書いたリメイク版『蟹工船』を観てきた。監督・脚本はSABUというひとで、この映画を観るまでまったく知らない映画監督だ。

 昨年9月26日のエントリーにも書いたこと。ちょうど一年前に、盛岡で1953年製作、山村聡監督・主演の同名作(旧作と表記する)を観たとき、実に臨場感あふれる問題作にいたく感心したものだったが、21世紀のいま、平和な時代によみがえった小林多喜二の代表作は、はたしてどのように描かれたのか、気合い入れてスクリーンに見入った。

 正直言って、これ、駄作に近い出来。失敗作とまではいわぬが……。

 どこがいけないのか。

 描き方がぬるい。役者に迫真さと神妙さと謙虚さ、そして躍動感が、ほとんど見られないのはどういうことか。

 生きるか死ぬかの境遇にあえぐ漁夫・雑夫たち。血ヘド吐くまで酷使される彼らは、つねに鬼気迫り、ピンと張り詰めた緊張感にあるはずだが、そうした内面がまったくといっていいほど、描かれていない。実に呆けた空気ではないか。

 なにこいつら。これで演技してるつもりなの? 「死ぬ気で働け」と浅川が怒鳴り散らしていたけど、その前に「死ぬ気で演じろ」と、私などは毒づきたくなってきてしまった。

 SABU監督は旧作を見ていないのだろうか。ひとりひとりの役者たちの、骨のズイまで叩き込まれた「漁夫・雑夫」としての抑圧された精神。あの鬼のような形相に爛々と光るまなざしで、体全体をつかって「不当」を演じた役者たち。それを超える作品に仕上げようとメガホンを執ったはずではなかったのか。

 まあ、旧作のような泥臭さ、汗臭さ、むさ苦しさを、SABU監督は嫌ったのかもしれない。いまどき口泡とばして体をはってぶつからせるなんて、相撲の取り組みじゃあるまいし、イケメンぞろいの役者たちにそんなダサい演技はさせるもんじゃない、とでも考えたのかもしれないが。

 そのキャストだが、松田龍平西島秀俊以外はほとんど知らない。多くは無名にちかい俳優・タレントみたいだ。だとしたらなおさら演技力で観客の目を引き付ける工夫を凝らすべきなのだ。なぜか漫画家の内田春菊の名がクレジットされていたが…。

 そのほか思ったこと。旧作をどれだけ意識したかはわからないけれど、原作とはかなり進行が違う。もちろんそれは何の問題もないが、一番気になったのは、船の中の描写である。船特有の揺れ、それが実に不自然なのだ。それとセリフに出てくる「水夫」という言葉。漁夫・雑夫じゃないんだね。差別用語だからか?

 話題作であるなら、どうせならタブーに切り込むべきであった。旧憲法下、暗黒の軍国主義時代における末端労働者たちの決起を描くのであれば、必然的に体制批判にいたるはずなのに、なんとも気の抜けた脚本である。むしろ言論の自由のなかった時代に小林多喜二が書いた原作の方が、タブーを率直に描いているくらい。

 SABU監督はビビッたのかもしれない。その最たるところが、そう、帝国海軍兵士をどう描いたかだ。一番関心のあったラスト間際のシーンである。ちなみに旧作では、帝国海軍兵士は“反乱の首謀者”たちをことごとく銃殺に処した。日本軍兵士が日本人を殺戮したのである。

 本作での帝国海軍は、なにもしませんでした。銃底でゴンと叩いただけ。昨年9月26日に書いたことが見事に的中しました。

 ひとりの「責任者」を殺しはしたが、それは浅川が拳銃で撃ち殺した。なんでそうなるのか。

 言論の自由が保証された現代だけど、旧作のような展開は避けたとみた。話題作ではあったけれど「問題作」にはしたくなかったのかもしれない。「糞壷」さえ登場しない用語の使い方といい、SABU監督はヘタレなのか。

 かなり辛口になってしまったけれど、労働者らが目覚めてゆく過程に関しては、感動的であった。SABU監督がいちばん訴えたかったのはそれかもしれない。考えることをやめてはいけない、現状を打開するには自分自身の力で実行せよ、他人まかせではいけない、恵まれないことを他人のせいにしてもいけない。考え、行動し、そして掴み取れ、とSABU監督は観客に伝えたかったのだろう。

 観ないよりは観てよかったと思う。