『闇の子供たち』観てきた

 あの問題作『闇の子供たち』(阪本順治監督)が、思いがけず盛岡のシネコンで上映されているのを知り、すかさず観にいった。岩手か秋田で上映する機会をずっとうかがってたのに、公式サイトの上映館情報には北東北でのスケジュールがなく、こりゃ観られずじまいに終わるのかなーと気をもんでいたら、なんか先週末より上映されていたのだった。

 梁石日原作本は、しかし読んでいない。読もうと思っていたけれど、上映スケジュールに合わせて買うつもりでいたのが、そんなこんなで機会を逸し、原作知らずのままでシネマに走った次第である。

 児童売買春を描いた本作品は、社会性・啓発性が満載。われわれ日本人(を含む先進国民)が、異国で子どもの性を搾取するという重たく辛いテーマを、梁石日は描ききった。氏はいまも『週刊金曜日』に従軍慰安婦(日本皇軍用性交奴隷)をテーマにした小説を連載しているが、過去の題材ではなく、現在進行型の児童売買春となれば、観客の良心が問われているといっても過言ではあるまい。では映画評。

 おおまかなあらすじ。

 南部(江口洋介)はタイ駐在の新聞記者。ふとしたことで、タイ国境の村(カンボジアか)から子どもたちが売春と臓器売買目的でチェンライに連れて来られていることを知り、NGO職員の恵子(宮崎あおい)とカメラマンの与田(妻夫木聡)らとともに、紙面での告発へむけて動き出す――。

 なにより新聞記者を演じた江口洋介の演技が最後までヘタクソなのだった。逆に宮崎あおいにとっては、役不足としか言いようがないであろう。新人タレントも容易に演じられる純粋な娘役なのだから。妻夫木聡などはアクセサリー的存在か。他の面子は論評するのも面倒、割愛すべき対象だろう。

 そんな邦人俳優のちぐはぐキャストぶりを見事に補ってくれたのが、タイ人俳優の面々である。わけても子役陣の存在感は大きかった。

 児童売買春のシーンで、置屋の一室に身を寄せ合う子どもたちの瞳は、すごい迫力があった。ほとんどないセリフ、わずかな動き、表情の微妙な変化は、江口洋介のような勘違い役者には到底及ばない、強く訴える力がある。

 成人もそう。子ども集めのブローカーという悪役チットを演じたタイ人俳優プラバトン・スワンバン(Praptpadol Suwanbang)の、圧倒的な存在感と演技力は、本作品に登場した日本人俳優が束になっても追いつくまい。しかし公式サイトでは、そうした功労者は所詮、外国人なので、「見えない存在」とばかりに、付けたし程度にしか紹介しないのである。ここに製作者の差別意識が見え隠れすることを指摘しておこう。この映画は、タイ人役者なしでは、絶対に、これほどの名作にはならなかったのだが、どれだけ貢献してもタイ人はタイ人、子役は子役。江口や宮崎らの下の下なのである。

 いろんな方面で、本作品の“問題作”ぶりが言われているが、個人的にはさしたる意識は覚えなかった。秀作であり名作であることは確か。児童売買春や臓器移植問題に切り込んだ姿勢は高く評価できるけれど、たとえば買春客に日本人は、気弱そうなのがひとりだけ登場し、多くはアメリカ人やドイツ人といった白人を醜悪に描くのである。それは一面の事実ではあろうが、われわれ日本人観客の心に突きつける意気込みが希薄だという証左でもある。

 臓器移植もそう。フィクションか、事実をヒントにしているのか議論されているようだけれど、本作は別に日本の医療制度のあり方を問うものでもあるまいに。

 取材か告発かで苦悩する南部記者(江口)が、実は自分もタイ人の男児相手に児童買春をしてて、自責に苦しんでラスト近くで自殺するというオチは、果たして原作どおりなのかとさすがに気色悪くなったが、そういう難しい役回りを江口ごときに与えたことが、失敗の最たるところといえるか。

 あとエンディング主題歌にサザンの桑田佳祐を使ったのも賛否あるそうだが、私としても「否」の方につきたい。桑田という歌手は好きだけれど、やはりこういう社会派作品にはそぐわない。タイの民俗音楽をからめて、当地の文化を取り入れた音楽にすべきだった。

 ゴミ同然に捨てられ、やっとの思いで村に帰ってきた少女ヤイルーン(Kullasatree Kanmakklang)が、蟻にたかられて死んでいるシーンは胸を打った。彼女を火葬するシーンもしかり。東南アジア諸国で死者を火葬する風習は、たしかカンボジアだけだったと記憶している。

 ヤイルーンの故郷はタイとの国境の村。美しい村だった。きっとカンボジアなのだろう。