『おくりびと』の奇妙

 二夜連続で映画のお話。あの『おくりびと』である。滝田洋二郎監督、小山薫堂脚本、本木雅弘主演の、あらゆる映画評で絶賛を浴び、第32回モントリオール世界映画祭でグランプリを獲得した話題作だ。そこまで優秀な作品なら観てやろうということで、きのうにつづけて映画館に行ってきた。

 しぶガキ隊のモックンもすっかり役者になった。アイドルだったころは、学校の女子が騒いでるのをせせら笑ったものだが、世代が同じだと、お互い中年になったいまは、かつての反発よりも親近感を感じてしまう。ベテランのタレントであるばかりか、この「納棺師」をあつかったアイデアは、モックンの発案というのも感心である。

 では果敢に映画評を。

 残念ながら、はじまっていきなり失望を味わわされた。おりんを鳴らすシーンである。あれは大徳寺リンの五寸とみたが、大徳寺リンのあの大きさのものは、あんな甲高い音はしない。大徳寺リンのような肉厚で口がせまく高さのあるリンは、非常に重たい音がするものだ。いったいなにを考えてあんな安っぽく響きわたるリンの音に差し替えたのか。

 つづいてモックンが遺体を拭うシーンで、女性と思っていた遺体が男性と気づく場面もおかしい。故人の性別は戒名で簡単に判別がつくし、かりに坊さんにまだ戒名をもらえていないとしても、葬祭となれば俗名(実名)はそこかしこに記されているはずなので、プロでなくとも気づくというか、そもそも葬儀における故人の実名表記は、絶対に確認を怠ってはならない大原則なのだが、モックンらは故人の名前を確認せずに納棺の儀を行おうとしたのか。

 中盤のシーンでは、なぜか初冬の河原でオオヨシキリがギョシギョシと鳴いていたりする。繁殖期でない冬に鳴くわけないっての。庄内弁は練習不足の人が少なからず目立ったが、その点モックンの庄内弁は合格だ。なぜか山崎努が庄内訛りでないのが気にかかったけれど。

 とまあ批判をぶちかましてしまった。感動された方、すいません。

 もちろん、私も感動したシーンも多かった。人の死、家族との最期の別れ、あの世への旅立ちを描くとき、どうしたって感情が先に立たずにいられない。納棺師という職業は私もこの映画に接するまで知らなかったが、なんと感動的な立会いなんだろうと、涙をこらえるのにどれだけ苦労したことか。納棺師を職業差別まるだしに見下げた設定も納得がいかない面があるが、それは物語の進行上必要なこととして、目をつぶろう。

 ところどころにまぶしたお笑いを誘うシーンで重苦しい雰囲気の中和をはかるのもよしとしよう。音楽はあの久石譲だ。エンディングに成り上がりバンドを引っ張りだして感動作を台無しにした『いま、会いにゆきます』てのがあったが、あんな大失敗を本作で犯さなかったのが救いか。出資が案の定テレビ局(TBS)なのも不愉快だけれど、“死”をめぐる日本のゆかしい文化にこころを打たれた外国人が、国際映画祭でお墨付きを与えるのもいたしかたあるまい。

 うーん、私のようなひねくれ者がみると、どうもあら捜しになってしまう。もちろん見ごたえは充分にあるので、ぜひどうぞ。