『靖国 YASUKUNI』観てきた

 手ぬぐい(タオルでもいいと思う)を水で絞って、広げてはたくと、「パン!」と軽快な音が鳴ります。これ、日本刀でヒトの首を一刀に斬ったときの音と同じなんだそうです。豆知識ね。

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 去る6日(日)、盛岡シネコンで『靖国 YASUKUNI』(監督・李纓=リ・イン)を観てきた。ある衆議院議員が「反日映画」だとして事前上映を要請し、これに呼応するように抗議が殺到して当初予定の上映がすべて中止になった話題作だ。

 上映中止に追い込むことに成功した稲田朋美衆議院議員は、戦前復古を求めるエース政治家として一躍名を上げ、これを支える勢力の台頭が目覚しいことも裏付けられた。そう遠くない将来、わが祖国がどのような国家となっているかが暗示されているようである(おそらく稲田議員や産経・新潮・文春あたりが目指す国家像が完成されていよう)。

 さて、中止にはなったものの、『靖国 YASUKUNI』をめぐる動きはその後も尾を引き、復活上映や上映シネマの増加など、上映の場はむしろ広がり、私の住む秋田の田舎でも上映の案内チラシが舞い込むまでになった。田舎で観られるとは思えなかったが、盛岡のシネコンでやるとなれば見逃す手はない。時間をやりくりして辛うじて鑑賞の機会を得ることができた。

 上映は一週間、それも一日二回という短期間。日曜日であるせいか観客の入りは1割ほどの40人くらいか。娯楽でないノンフィクション・ドキュメンタリー映画でこの入り様は、盛岡では多いほうである。

 ざっとした感想を書くと、これのどこが反日映画か、と思った。前半部は、まじめな国粋主義者靖国神社を参拝しているだけ。祖国防衛のため戦地に散った若者の魂の眠る神社に、軍服の正装で作法に則って参拝する姿勢は、なんぴとも侵すことは許されまい。

 もっとも稲田議員やその支持者や、稲田議員を支える産経などのメディアのいう反日」とは「日本の国粋右翼に反感をもつこと」であるから(2007年6月22日拙日記)、後半部の展開はたしかに「日本の国粋右翼」の方々には心中穏やかならぬものであろうが、力関係からいえばほぼ均等に「靖国」の「8月15日」を描いているから、自分の思想や考えや好みを押し付けたがる左右双方から賞賛批判あってしかるべきであろう。でも上映中止を果たした側(稲田議員や産経などのメディア)の思想・考え・好みが、日本社会において優先されていることは明白なわけで、稲田議員からすれば半々ではダメ、10:0か9:1あたりが妥当、といったところなのかもしれない。

 そのほか、演出は落第。現役最後の刀匠を通して靖国を見つめる企画はすばらしいけれど、刀匠の姿が無骨で粗忽で大雑把すぎる。よくいえば素朴、悪くいえば格好悪い。李監督はシンプルさにこだわったのだろうか。ぶっつけ本番のドキュメンタリーであることを割り引いても、せめて刀匠の撮り方くらいは凝ってほしかった。

 音楽。これはよかった。効果も最初は帰りたくなるほどの粗末さだったが、時間を追うごとに実相が見えてくる味わい深さもあって、観客に「靖国」の抱える諸問題をあらためて考えさせる技法に感心させられた。

 以上が感想である。これを上映中止に追い込んだ稲田議員の活躍と、それを称えた世論の現実とともに、日記に書いておくことにしよう。

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 手ぬぐい(タオルでもいいと思う)を水で絞って、広げてはたくと、「パン!」と軽快な音が鳴ります。これ、日本刀でヒトの首を一刀に斬ったときの音と同じなんだそうです。豆知識ね。

 昭和8年(1933年)から敗戦までの12年間、靖国神社の境内にて、8100振りの日本刀がつくられていたという「靖国刀」。

 その靖国刀のひとつで百人斬り競争が行われたのかは知らないが、刀をつくり、奉納するばかりでなく、靖国神社には、戦争で死んだ兵士はじめ、戦争犯罪容疑で処刑させられた人や、売春宿の経営者までも合祀されている。朝鮮や台湾の兵士も合祀されている。遺族の意に反して。

 それら祀られた人々に対し、感謝と畏敬の念をささげ、自らの目標・手本とすることを、靖国神社とその参拝者は要求している(売春宿の経営者を敬え、見習えといわれてもね)。

 そんな神社をありがたがり、大事にすることが日本人のつとめだと、多くの人は言い、これに反する言動を圧殺する。

 もうすぐそんな日本が完成します。
参考:Apemanさんとこの関連日記(本館)
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