ルポ・被災地をゆく


 最後の審判――新約聖書の黙示録。そんな言葉を思い出した。

 * * *

 6年前まで岩手県大船渡市にオフィスがあり、私は月に一回の出張で訪れていた。三陸地方の気候は、秋田の山ふところに住む私には一種独特で、夏のヤマセや冬の空っ風など、秋田にはない季節風はときに快適ではあったが、体調を崩すこともしばしばだった。足かけ20年近くにおよぶ定期出張は2005年3月のオフィス閉鎖により終止符を打たれたが、現地で世話になった方々との交流はいまもつづいている。

 3月11日、私は宮城県大崎市鳴子にいた。あの大きく長い揺れはただ事ではないと思ったものの、あれほどの巨大津波を引き起こすことまでは想起しなかった。だから三陸沿岸部が壊滅的な被害を受けたという報道も、電気が復旧してテレビの映像を見るまでは、絵空事に近い感覚で受け止めていたことを白状しておきたい。

 テレビで上空からの陸前高田市の状況を見たとき、絶句した。あの泥とガレキに覆われた市街地には、仕事で世話になった方がたくさんいる。すぐにでも駆けつけたかった。しかし諸々の事情により、数か月ぶりの気仙地方出張が実現するまで、さらに3カ月を待たなくてはならなかった。

 そして6月13日、落ち着きを取り戻したであろう被災地に、ようやく足を運ぶ機会にありつけた次第である。以下にそのときの模様をつづる。

陸前高田市

 住田町で国道107号と分岐する国道340号は右手に気仙川を望みつつ、そのまま陸前高田へ通じている。市街地の手前にある竹駒町のあたりで、気仙川は様相を変えた。中州や浅瀬や川岸にガレキが打ち上げられているのだ。道は不意に上り坂となり、すぐに下り坂。この坂を下りきると、陸前高田市街地である。

 目の前に異様な光景がみるみる広がってくる。住宅や商店など雑多な家屋がところせましと立ち並んでいるはずの市街地が、ひとつの住宅もない、だだっ広い無限の荒野に様変わりしている。車道わきにはガレキが残り、街路樹はことごとくなぎ倒されたか、残っているものも枝にボロ布が引っかかったまま。地面から十数本の鉄骨が剥きだして触手のように広がっているのは電信柱の跡。電柱も残らずなぎ倒されたようだ。

 建物自体はあちこちに残っている。鉄筋コンクリート建てのそれだけが、荒れ地のところどころに、土ぼこりをともなってたたずんでいる。しかし、どの建物も窓やシャッターは破られたままだ。さらに走ると、小山のようなうず高い盛り土かと思ったら、ガレキで構成された巨大な山が視界に飛び込んできた。ガレキを積み上げる大型バックホーがオモチャのように見える。

 視界の及ぶ範囲、見渡す限りの薄茶色の荒れ地だ。さながら砂漠に残る土塁だけの遺跡の数々。日本にはあり得ない、概念を超えた光景だ。

 巨大津波は猛烈な勢いで、陸前高田市街地をまんべんなく襲った。そのなれの果てである。

 この道は、オフィスがあったころから通り慣れた道だ。周囲は住宅や商店・郵便局・倉庫・学校が立ち並び、大変なにぎわいと活気があった。仕事で訪れた住宅は数多く、どの家庭も温かく私を迎えてくれた。

 そこが、見る影もない。まるで月面に降り立ったような錯覚すら覚えた。

 道の一角に、県外ナンバーの車が停まり、小ぎれいな身なりをした初老の夫婦らしき男女がいた。男性はデジカメをかざして、この凄惨な光景の撮影にいそしんでいるのだった。それをみた私は、胸に不快な空気の塊がこみ上げてくるのを感じたが、私自身も撮影の用意をしていることを思い出し、不快な空気を呑み込むほかなかった。

 陸前高田は壊滅状態――。大津波に襲われた現地を、報道ではそう表現していた。まさにその通りだと思った。

 人の気配はほとんどない。見かけるのは交通整理の警備員か、重機を動かしている作業員くらい。ここで暮らしていて難を逃れた人々は全員、避難所にいるのだろう。

 天気もよく風もおだやかな初夏、陸前高田市街地は、あの日から凍りついたままなのだった。

 とはいえ、あれから3カ月が過ぎている。ガレキや廃材や車両・漁船はあらかた片づけられたのだろう。道路の通行は支障なく、家財道具も運び出されたか回収されたか、各家々は土台ばかり残されている。市街地をひと回りしてから、山間にちかい場所にある一軒のお宅へ向かった。

 吉田正洋さんは市民団体「めぐみ豊かな気仙川と広田湾を守る地域住民の会」(住民の会)の代表世話人だ。気仙川の自然を通じ、上流に計画されている県営津付ダムに疑問を呈し、計画の見直しを訴えている。10年ほど前に私が訪問したとき、ヤマメの塩焼きをふるまいながら、津付ダムの欺瞞を熱っぽく語っていた。

 記憶を頼りに吉田さん宅を探す。津波はこの山間部まで達した模様だ。悪い予感が渦巻いたが、まもなくおぼろな記憶と合致した建物が見つかった。

 このあたりは緩やかな田園地帯にあるが、周囲の田畑に苗を植えた気配はない。農家が塩害を懸念した証拠だ。津波はここをも襲ったようだ。海から相当な距離があるのに。

 敷地に入り、おそるおそる顔をのぞかせると、奥さんが突然の訪問客に驚き、あとにつづいて吉田さんが人懐っこい顔を窓から見せた。

 「ああ、秋田の!」と私をすぐに思い出してくれた。

 懐かしいご夫婦が無事と知ってホッとしたが、吉田さん宅は無事ではすまなかったらしい。

 「床上70センチ、このあたりまで水に浸かった」と壁の線を指さす。小物類やパソコンが流されてしまったという。

 「大きな揺れがずいぶん長くつづいて、防災無線大津波警報を出して、避難を呼びかけていた。私は妻と自宅にいたが、いくらなんでもここまで津波はこないだろうと避難はしなかった。しかし甘かった。まさかあれほどの津波が襲いかかるとは」

 吉田さん宅からは市街地が一望できる。外に出て目を凝らすと、土ぼこりだか水煙だかに包まれた市街地方面から、黒い波が、壁になってみるみる迫ってきたという。

 「こりゃ大変だと思い、すぐに妻に声をかけて、とるものもとりあえず逃げ出した」

 ふだんの穏やかで青く澄んだ水ではなく、泥とガレキが混じった墨汁のような水が、吉田さんの自宅に噛みついた。

 幸い、水量はさほどではなかった。一階の床上数十センチが水に浸かった程度で、建物に致命的な損傷はなかったという。

 津波は吉田さん宅の後方50メートルほどで止まった。吉田さん宅より上の家屋はさらにその高台にあるので、この集落では吉田さん宅が最奥の被害家屋ということになる。ギリギリセーフならぬギリギリアウトだった。

 「水は間もなく引いたが、泥にまみれた床や畳など、一階部分はまったく使い物にならなかった。この大量の泥とゴミをどうしたものかと、しばらく頭を抱えた」

 困り果てた吉田さんを助けたのが近所の方々だという。被害を受けた人も無かった人も吉田さん宅にあつまり、スコップを慎重にあやつって壁にキズなどを残さぬように気を配りながら、室内の泥をかき出してくれた。

 「地震当夜から住田町の親類宅に身を寄せていたが、自宅が心配だったので、日中は戻って片付け作業に追われていた」と吉田さんは語った。

 さいきんになってようやく電気も復旧し、一階の片付けも一段落して、吉田さんは震災前の生活を取り戻しつつある。

 吉田さんが仲間とともに活動している「津付ダム」について水を向ける。仲間は全員、無事だったという。

 「あの津波で、陸前高田市は壊滅的な被害を受けた。ダムは治水(洪水対策)が目的だけれど、気仙川周辺の治水の受益地は、見ての通りの状態だ。あそこに住んでいて難を逃れた人たちも、再び元の場所で暮らすことは大きな抵抗があると思う。私たちはもちろん、ダムを造ろうという事業者にとっても、想定外のことだったろう」

 ややあって吉田さんはこう話した。「まったく予想外の事態が引き起こした結果ながら、津付ダムは中止になる公算が高いと、私はみています」

 ダムを造ることによって上流からの出水から守ろうとした場所が、大雨でも土石流でもない、海からの津波によって壊滅させられた。そんな場所に、人々が再び戻ってくることは考えにくい。となると、ダムの大義が失われた格好になるというわけだ。

 「怪我の功名」という表現が適切ではないことは言うまでもないが、自然をコントロールしようという一部の人間のおごりと、それに乗っかって利権にあずかろうとした人間たちの欲望をも、津波は打ち砕いた。しかし陸前高田は、おごりだの欲望だの俗っぽい人間界のいかんを問わず、生命や民俗や文明を根こそぎ奪われ、いまやガレキの山や海の藻屑と化してしまった。

 陸前高田の人口は2万3000人。このうち1割近くが、死亡または行方不明となっている。

 最後の審判――これまた不適切な表現をしてしまったが、津波到達後、水が引いてからの市街地は、まさに地獄さながらの様相だったろう。穏やかな海と松林に抱かれ、景勝の街・常春の地ともいわれた陸前高田。いつも明るい表情で私を迎えてくれた人々が、なぜに死ななければならなかったのだろう。ほんの前日まで、いや10分前まで、まさか自分が死地へ赴くことになるとは、露ほども思わなかったであろうに。

 どんな困難も乗り越え、人々は叡智を活かし、いつかは復興するといまは信じるしかない。

大船渡市

 吉田さん宅を辞し、私は隣の大船渡市へ向かった。三陸地方を縦断する主要幹線道路の国道45号は表面的には大きな被害はなさそうだと思っていたら、市内笹崎から野々田の海抜が低い所で、住宅や商店が津波の被害に遭っていた。陸前高田と同じ、ガレキと土台のみの光景がここにも広がっていた。

 まもなくオフィスがあった場所。国道沿いである。オフィスの建物はずいぶん前に解体され、いまは駐車場になっているが、向かいのYさんの工場は以前と変わらぬ活気にあふれており、顔なじみの従業員が忙しそうに作業に追われていた。このあたりは高台になっているので、被害はなかったと聞いていた。

 Yさんは私をみると大層おどろき、突然の訪問を喜んでくれた。しかし話を聞いてみると津波はここまで達したという。

 「膝のあたりまで水に浸かった。俺の家も流された」とYさんは顔を曇らせた。他の従業員は無事だったが、家族・親族は必ずしも無事ではなかったらしい。深く聞くことはできなかった。工場が震災前よりも多忙なのが救いであろうか。

 ここからさらに上った地点にS寺というお寺があり、私はよくそこでバードウォッチングをしていた。アオゲラトラツグミ・ホンドリスを観察したこともある。その寺も震災直後は避難場所になっていたが、まもなく遺体安置所になったという。

 大船渡も大きな被害を受けた。国道から海の方角へ折れて旧国道へ向かうと、スーパーや食堂などの商店街は一切、なくなっていた。歩道にはチリ地震津波の到達点をあらわすプレートが埋め込まれていたが、今回の津波はそれをやすやすと越えて、バイパスをも呑み込んだ。

 人々の受けた恐怖はいかばかりであったろうか。

 Yさんにお見舞いを伝え、最後の訪問地である市内赤崎町へ向かう。

 赤崎町は海沿いの集落だ。あれほどの津波ではひとたまりもないと、震災直後に直感した。実際、たまたま盛岡で話を聞くことができた三陸町の人によれば、言下に「だめだめ、あそこは全滅」と言われた。

 でも背後が山になっているから、建物は流されても人々は高台へ避難して相当数が無事であると思われた。

 盛川に架かる橋を渡り、旧三陸町綾里地区へ通じる県道9号をゆくと、異様な臭いが鼻をついた。魚が腐った臭いだ。このあたりに漁港はないから、おそらく盛川をはさんだ向こう岸の漁港で処理にこまった水産加工物の腐敗臭であろう。さきほどまであちらにいたときは感じなかった異臭だから、風の向きで対岸へ漂っていたに違いない。県道わきの植え込みには消石灰が撒かれて消毒されていた。

 さらにゆくと、右手の広大な空き地に、おびただしい車の数。津波で流されて使い物にならなくなり、収容された車両置き場だ。あとで聞いたらその数3000台という。ほぼすべてナンバープレートを外され、廃車処理となっている。

 住宅地に入ると、津波にさらわれなかった家屋の外壁に黒い線が横に残っている。おそらく流出した重油の痕だ。地面から1.5メートルほどだから、この周辺はそれほど高い波が襲わなかったようだ。

 しかし赤崎町は、ここから先へ進むにつれ沖に近くなる。赤崎小学校も中学校も、校庭やグラウンドはガレキ置き場だ。児童・生徒の姿はない。一階部分は確実に水没したのであろう。

 そして目的地である○○集落。私が大船渡オフィス時代に、もっともお世話になったSさんの自宅がある場所だ。数日前にSさんから電話があり、無事を知ったが、親族に犠牲者が出た様子であった。ちかぢかの訪問を約束して、きょうようやくこの地へ赴いた。

 Sさんは元気であった。ちょうど自宅の修繕作業をしているところだ。

 私をみて懐かしそうな表情を浮かべ、一息いれようとしていたSさんに話を聞く。

 あのとき、自分は妻と一緒に自宅にいた。突然の揺れに驚き、戸棚や書庫・仏壇の中身が飛び出さないように押さえるのが精いっぱいだった。
 間もなく大津波警報防災無線から流れた。当初は2メートルとかだったが、ここはこのとおり海のすぐそばだから、警報とあらば避難しなくちゃならない。寝たきりの妻を抱え、上の方にある親類宅へどうにか運び上げた。そのとき海が異様な音を放っているのを聞いた。
 自宅には飼い犬もいるから、そいつも連れてこなきゃならない。いそいで戻ったが、もう波が庭まで押し寄せてきていた。腿のあたりまで水に浸かって犬を助け上げた。すぐ下の平屋の住宅は土台ごと水に浮かんでいた。
 命からがら逃げ出すことができた。全身ずぶぬれだった。津波の高さは10メートル以上あったんじゃないだろうか。

 Sさん宅は10年ほどまえに新築したばかりの重厚な建物だ。一階の天井近くまで水に浸かりながら、致命的な被害はなかった。大船渡湾から押し寄せた海水が、泥やガレキをあまり含まず、透明にちかい状態でしずかに上昇したことが幸いしたようだ。

 しかしまったくの無傷であったわけではない。水が引いた後の惨状は目を覆うばかりであった。泥やゴミが床上も床下も覆い尽くし、Sさんは家の解体も覚悟したという。

 それを救ったのがボランティアだ。県外からやってきたグループがSさん宅へ派遣され、畳や床板をすべて引きはがし、地面にへばりついた泥をすべて掻き出してくれた。

 「ボランティアはほんとうにありがたかった。床下に目途がついた段階で壁紙を張り替えた。つぎは障子やふすまなどの建具を手掛けるつもりだ」とSさんは語る。私が訪れたときは、とても津波で甚大な被害をうけた家屋とは思えない見栄えであった。

 Sさんは語る。「ほんとうは、ここにはもう住むまいと思った」。あれだけ大きな津波が、また襲わないとも限らない。そのとき家族を守りとおせるか、自信がゆらぐのも当然だろう。しかし家族で話し合った結果、この地で再出発を決めたところだという。

 Sさんは町内会の役員をつとめる地域の名士である。その人物がふるさとを去っては、他の住人の動揺をさそう恐れも懸念したのかもしれない。

 Sさんは家族ともども無事であったが、親類・友人知人が何人も犠牲になった。

 「この集落だけで13人が死んだ。同級生も3人が死に、陸前高田の親戚も死んだ。津波で助かりながらも、避難所で衰弱して死んだ人もいる」

 命が助かった多くの知人は、もうここには住みたくないと言っているという。避難所や仮設住宅・親戚宅へ身を寄せている人も、Sさんのように自宅の再建に着手している人も、見えない未来に賭けるしかない。暗中模索する日々はいつ終わるとも知れないが、歩き続けるうちにきっと明るい出口が見つかると思いたい。

 Sさんにお礼を言って、私は帰路に就いた。

ダムと原発

 「政府はなにをやっているんだ、対応が悪い、政治家は無能者集団か」――。

 ネット限定ながら、震災直後からこのような政府批判の文言が、匿名掲示板やブログ・ツイッターを中心にあふれていた。あれだけの未曾有の被害をもたらした津波の映像と、被災者の憔悴しきった表情を見れば、自分が被災者になった錯覚に陥り、政府バッシングに走る気持ちは分からないでもない。怒りのぶつけ先は政権与党以外にないと思いこむのも特徴だ。

 輪をかけたのが原発事故だ。福島第一原発の重大事故は、多くの日本国民が初めて体験する放射能汚染をもたらした。地震の多いわが国に50基を超える原発を抱える以上、こういう事態が引き起こされることは予想されたはずなのに、これまた現政権を叩くネタになった(反面、ただちに全原発の運転を停止せよという世論が湧きおこらなかったことも記しておこう)。

 菅首相の一挙一動をとらえ、あらゆる行動を裏目だの後手だのと、ろくな検証もせず総理を辞めろと叫ぶ右派メディアと、それに引きずられる形で少なからぬ民衆も菅ヤメロコールの輪に加わった。ただしそのほとんどは、たんに血相を変えた“一般国民”で、首相が交代すればどのような展望が開けるのかという根本的な問いに答えることはできず、たいていは論理の破綻を招き、IAEA国際原子力機関)の「(日本政府は)実行可能な最良の方法をとった」との報告で、ようやく冷静さを取り戻すという道化を演じてくれた。一時はパニックに陥った民衆も、わずかな例外を除いてデモすら起こすこともせず、せいぜいネットに書き殴るだけで具体的な行動を示さないしおらしさを内外にアピールした。

 実に日本人らしい、何もできない(何かしたつもりでも何もしていない)人々であった。

 現政権が震災や原発事故に際して的確な方策をとったとは私も思えない。「裏目」も「後手」も指摘されてしかるべきだろう。ただ、どのような状況下にあっても、一般国民は冷静でありたいと思う。やみくもに政府を批判するだけでは何も解決しない。首相の首をすげ変えて解決するなら、とっくに政府はそうしているであろう。

 だが、そもそも地震の巣と言われる日本列島に、まんべんなく原発を設置したのは、どこの政党か。

 福島県双葉町を挙げてみよう。自治体にカネをばら撒き利権にまみれさせ、ハコモノ建設連発で財政難を誘発させ、この期に及んで町長に「原発増設見直しは時期尚早」などと放言させ、救いようのないくらい双葉町原発利権ズブズブにしてくれたのは、どこの政党か。目覚めた幾人かの識者も指摘しているが、今回の事態を招いた遠因をさぐるに、どうしたって自由民主党の長期政権が横たわっている。なのにものの見事に、自民党の責任を問う声は少ない。

 その少ない「自民党の責任を問う声」を、私の知る範囲のみにおいて、3つ紹介しておこう。まず小説家の赤川次郎氏。

 …福島第一原子力発電所の惨事は『人災』である。この狭い国土の地震大国に次々に原子力発電所を建て続けたのは、電力会社と結んだ自民党政権であり、なぜ自民党の罪を問う声が起こらないのかふしぎだ。
(2011年3月24日『朝日新聞』コラム)

 つぎは物理学者の大槻義彦氏。

 …自民党はあれよあれよという間に原発の数を増やしていった。そして、安全神話を広めるのに莫大な予算を投入した。原発は膨大な利益を生み、おおくの官僚の天下り自民党に対する政治献金を受けてきた。しかし、災害や事故に対する備えはおざなりなものであった。(中略)先手先手の対策など不要である、と考えた。原発事故の最大の罪はここにある。先手、先手の対策の欠如。
 自民党よ、今民主党政権の後手後手の誤りを追及するなら、自らの先手先手の誤りこそが追及されねばならない。(後略)
http://ohtsuki-yoshihiko.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-2549.html

 そして経済評論家の大前研一氏。

 旧自民党政権は、東電をはじめとする電力会社を景気対策の道具に使ってきた。たとえば、景気対策であと2000億円必要だとなると、予算を組まずに東電や関電などを呼びつけ、2000億円分の設備投資を要求する。電力会社はそれに従い、不要不急のハコものを造る。そういうことを繰り返してきたのである。
http://www.news-postseven.com/archives/20110427_18448.html

 頂点には自民党国会議員があり、その意を汲んだ知事・県議がいて、子飼いの市町村長がいて、市町村議がいる。さらに枝分かれして後援会や集落の総代へと、利権の血脈は末端まで行きとどいている。電力会社をはじめとする業者も並列してこれに倣っている。自民党による半世紀にわたる長期政権。これが今回の原発重大事故を引き起こした根源にある。それを突くのはタブーなのだろうか。

 日本でも脱原発デモが全国150か所で開かれたが、東京電力や国会前でなく、自民党本部や支部へデモ隊が押しかけた例があったかどうか。

 利権といえば、原発はダムに似ている。巨額の投資を行い、ムダなもの、危険なものを造るという点で一致している。必要がないものを必要性があるように装い、“大義”をわざわざこしらえて押し付け、いつの間にか「地元からの要望」となっていたりするのだ。

 私が関わっている成瀬ダムも、当初東成瀬村は懐疑的であった。広報紙にダム不要論が公然と掲載されたこともあった。それがいまでは、ほぼ全村民がダム建設促進の旗を振っている。この変化はなぜ起こりえたのか。ダムの目的である治水も利水もなんら関わらない東成瀬村が、である。

 カネになるから。それだけだ。原発とまったく同様である。素朴な人々は権威と財力に弱い。いまはこれ以上触れないが、巨大事業、一丁上がりの構図だ。

 もちろん、いつかは気付くだろう。原発地震大国日本にあること自体、異常なことであると人々が気付きはじめたように、東成瀬村民も、巨大ダムが村に造られることの異常性を知る日がくるだろう。

 そのとき、すべてが手遅れになっていないことを、切に願うばかりである。

(ときどき編集します)