秋田須川温泉・栗駒山荘のこと

客室からの眺め


 5月1日の日曜日、半年ぶりに須川温泉へ行ってきました。冬ごもりが終わって春を迎えた栗駒山麓の名湯を訪れるのは、ここ15年以上つづく私の恒例行事なのです。おふくろ同伴なのが原則ですが。

 いつも行くのは岩手県側の須川高原温泉です。おふくろはこっちがいいと言い張るから。私としては、秋田県民なのだから秋田県側にある栗駒山もたまには利用してもいいんじゃないかと思うのですが、おふくろは断固として岩手県側を譲りません。大広間に食ベ物持ち込み自由で、注文すれば食事を届けてくれるからという理由のようですが、食事じたいは栗駒山荘の方がいいんですけどね。

 でも今回は、栗駒山荘に行きました。なぜなら岩手県側の須川高原温泉が、まだ開業していないからです。国道342号開通も秋田県側のみで、あちらは5月10日ころになるらしい。

 あの大震災で除雪車の燃料供給が滞ったのが大きな理由です。秋田県側の除雪も一時あぶなかったそうですが、どうにか連休に間に合わせたみたい。

 したがって、初春の須川湯治は、数年ぶりとなる栗駒山荘というわけです。

 栗駒山荘は、検索するとレビューやブログがむちゃくちゃヒットして、かなりの評判であることがわかりました。そのどれもが好意的。

 では今回のエントリーは、地元である私が、全国の温泉ファンが太鼓判を押す栗駒山荘について、私見をまじえて別の角度から書いてみます。

もとは「栗駒観光ホテル」

 栗駒山荘は、かなり前から存在していました。栗駒山周辺が国定公園指定になる以前、県立公園時代からあったそうです。

 所有は民間業者。羽後交通というバス会社で、栗駒観光ホテルという名称で運営していた時期もあったようです。

 いちおう温泉ホテルでしたが、当時、源泉は須川高原温泉とは別だったんです。建物わきを流れる、剣岳を源流にした沢の岸から湧出する温泉でした。

 ところが、これがあまりよい源泉じゃなかった。温度や湧出量が一定せず、褐鉄鉱による鉄分(カナケ)も含まれていたため、浴槽が茶色に染まってしまうこともしばしば。

 そこで羽後交通は、岩手県側の須川高原温泉を運営する岩手県交通に掛け合いました。源泉を分けてくれないか、と。

 拒否されました。あちらの源泉の所有者は旧営林局。いろいろと根回しも怠らなかったと思いますが、分湯をめぐる交渉はうまくいかなかったようです。

 立地がよくても、肝心の温泉がまともじゃないと、お客さんは来ません。

 豊富な量で適度な温度の良質な源泉に恵まれ、目と鼻の先にある須川高原温泉がにぎわっているのを、ただ眺めるしかできなかった羽後交通はどれだけ悔しかったことか。

須川」は秋田のものだった

 実は須川温泉は、歴史的には秋田県側のものだったんです。

 しかし、泉質が強酸性で、ふもとの田畑を潤すには向かず、農家は“酢の川”に苦しめられていました。須川の語源はこれです。下流の農民が「酢の川」に悩まされた例は玉川(渋黒川)や高松川(川原毛)にも見られます。

 そこで江戸時代初期、温泉の流れを岩手県側に変えてしまったのです。湧出口はほぼ県境にあり、溝を掘ればたやすく流れを変えることができましたから。人手さえ集めれば一日で出来る工事です。

 そのあたりの経緯が、不透明なんです。

 一般には、源泉を佐竹藩から伊達藩に差し上げることで話がまとまったとありますが、温泉に入れない伊達藩が嫉妬して、一夜にして溝を掘って温泉の流れを勝手に変えてしまったという説もあります。実際のところはどうなんでしょうね。

 須川はいまや名実ともに岩手県の所有となっていることは確かですが、これほどの観光資源をみすみす他県に渡したことは、残念としか言いようがありません。

 しかし開湯350年と言われる須川温泉、それ以前からの時間を含めると、歴史的には秋田県側に注がれていた時間の方が圧倒的に長いのです。事実、周辺を掘削工事したところ、硫黄成分が堆積したものが秋田県側につづいていた痕跡が発見されるなど、非常なる長期間、須川温泉は秋田県側に流れていたことが裏付けられたケースもあります。

権利を譲渡

 栗駒山荘の話に戻りましょう。

 歴史的にはどうあれ、満足な源泉を確保できなかった栗駒山荘は、あらたな源泉をもとめてボーリング工事など可能性を探ってみましたが、自然公園内の制約などでうまくいかず、結局断念、やがて羽後交通が権利を手放し、栗駒山荘は東成瀬村へ無償譲渡されました。

 古い建物と使えない源泉という厄介なシロモノを押し付けられた格好の村当局ですが、これを活かせば村おこしの起爆剤になるかもしれません。第三セクターを発足させ、スキー場開設などとともに、村は豊富な自然を活かした観光産業を立ち上げました。

 第一のネックは栗駒山荘の源泉です。東成瀬村岩手県側に、あらためて須川源泉の分湯を願い出ました。

 結論からいうと、これがうまくいってOKが出たわけです。1987年10月のこと。第三セクターの役員を岩手県側から招聘するという条件つきで……だったような。

 「俺たちが何度頭を下げてもウンと言わなかったクセに、東成瀬村に権利をやったとたんにOKしやがって」

 これは羽後交通の元社員の言葉です。運転士でもあったその人は、急行バスで須川温泉を往復すると腕が棒のようになったと語っていました。私もかすかに記憶があります。ヘアピンカーブが次から次へと現れるせまい山道、運転手さんがハンドルと格闘するように悪戦苦闘している光景が、いまも浮かんできます。

 そういうわけで、実に343年ぶりに、須川の温泉が秋田県側に流れる運びとなりました。当時の報道でも大きく扱われていました。

 秋田須川温泉・栗駒山荘は、こうして息を吹き返したわけです。標高1126メートルの露天風呂といううたい文句つきで。

趣があった旧山荘

 そのころの旧・栗駒山荘を何度も訪れています。内湯も露天風呂もあまり大きくない。どちらも四畳半くらいだったかな。そんなせまい浴槽に、これでもかっていうくらい豊富な温泉がドドドドと流れている様子は壮観でしたね。いまでは見られない贅沢な光景です。露天風呂からの眺めもすばらしいものでした。

 さて、つぎの問題は建物。評判を聞きつけた客が増えるにつれ、老朽化の進んでいた建物と、せまい風呂をどうするかで、村は協議を続けていました。

 で、改築とあいなったわけです。もう10年以上前になるんでしょうか。

 古い建物はすべて撤去し、2年ほどかけて、真新しい山荘を建設しました。それが現在の栗駒山荘です。

 新装営業直後の栗駒山荘へさっそく行ってみました。そのときの感想。

 「なんだこりゃ。がっかりだわ」

 そんなこと言っちゃいけないんでしょうけど、そう思ったのが本音です。だってこればかりは、個人的な好みの問題なので。

 古い湯治場、奥ゆかしい質素な建物、素朴な人々――。それらがカケラも残っていなかったもんですから。

 近代的で開放的な建物、高級ホテルを想わせる従業員のコスチュームや接客、高級レストランをうかがわせるウエイターやウエイトレスに食事メニュー。

 こんなの栗駒山荘じゃない、と思いましたね。クリコマ・リゾートホテルとでも改名すれば、なんて皮肉りたいくらいでした。

 いまでは慣れたというか、普通に入浴して大広間で寝そべってレストランで地ビールでも煽って帰ってきますが、気取らず、田舎らしく、素朴な湯治客を温かく迎えるもてなしを前面に出した工夫を、今後は考えてほしいと思っています。

湯治部の創設を

 ぶっちゃけ、いまの栗駒山荘は旅館部として運営し、自炊客を主体にした湯治部のあらたな開設を提案します。

 1日は、大広間ではなく部屋を借りてくつろぎました。大きな窓に雄大な景色が映えるのは栗駒山荘の最大の売り。日々刻々と変わる絵画を見ているようで、飽きがきませんでした。でも注意深く観察してみると、改善の余地もありそうです。トイレが温水洗浄便座(ウォシュレット)じゃないとか、仕切りなし(バリアフリー)が行きとどいてないとか。車椅子や四肢の不自由な人は、宿泊が無理といっていい。これでは観光客のための観光ホテルです。体の不自由な人を度外視しています。須川温泉は湯治場であり、環境省指定国民保養温泉地だということを、東成瀬村は忘れてませんか。

 食事や設備・接客に個性を持たせ、岩手県側との差別化を図るのもいいけれど、バリアフリーの整った自炊棟を整備し、看護師もしくは保健師を常駐させ、湯治場ほんらいの姿を保った須川温泉が、秋田にあってもいいと思うし、そうあるべきではないでしょうか。

 一度復活した須川高原行きの羽後交通路線バスが、またしても休止の憂き目にあったのは採算割れが原因ですが、栗駒山荘で湯治したい人が増えれば、必然的にバスを利用することにつながるはずです。安上がりな湯治部なら、一週間や一カ月と長逗留する人もいるでしょう。

 それにしても、須川は効能の高さで知られるのに、どのブログもレビューも、ぜん息が改善したとか皮膚病が治癒したとか書いていないのは、まことに興味深いことです。ブロガーさんたちは、名湯・須川温泉を、ただ風呂に入って写真を撮ってくるだけの、ブログネタとしか見ていない証拠でしょう。もしも湯治客なんか見かけたら、それこそ彼らはブログに「栗駒山荘にキモイ病人がいた」なんてクレームを書きつづる可能性がありますが、運営する東成瀬村は、まさか病気の湯治目的のお客さんを断ったりしませんよね?

 そういうわけで、ここに、秋田須川温泉栗駒山荘へ、湯治部の開設を要望する次第です。

(間違ってる部分もあるかもしれないので、お気づきの方は遠慮なく指摘してください)