『バベル』――「内面」て

 今朝の『朝日新聞』(統合版)で沢木耕太郎さんが映画『バベル』を論じていた。評価が私とおおむね同じだったので,ああ俺の映画評は特におかしくはなかったのだな,と変な安堵を覚えたけれど,その中でこんな記述が目を引き,どこか考えさせられたのだった。

 やはり,異国を描くということは難しいものだとあらためて思う。イニャリトゥは事前にかなりリサーチをしたにちがいない。だが,日本人である私から見れば,日本のパートには各種の「無理」があった。菊地凛子の聾唖の女子高生の設定に無理があったように(以下略)

 はて,「聾唖の女子高生の設定に無理があった」とは思えない。障害を負うひとなんてそこかしこにいるし,外見上わからなくても,完全健康体のひとの方がむしろ少ないとも言えよう。沢木さんはこのようにも書いている

 母を失い,父と暮らしている東京の女子高生は,聾唖であるということだけではない孤立感を抱えている。

 「聾唖」に「孤立感」を加えても,まだ「設定に無理があった」とは言えないだろう。10代の若者はたいてい「孤立感」を抱いているのだから。

 まあ「設定に無理がある」といえるのは,この女子高生が処女にして変態露出女であることにほかならない。なのに沢木さんはそのことをまったく書いていない。書くことを遠慮したのだろうか。確かに書きづらいことだけど。

 沢木さんは,菊地凛子が本作で話題になりつづけた理由としてこう結んでいる。

 なぜ菊地凛子だったのか。それは彼女の演じる女子高生が,この登場人物の中でほとんど唯一「内面」を持つ人物だったからである。彼女だけが,発することのできない声を叫びに変え,チェスの駒としてではなく人間として存在できた。つまり,菊地凛子だけがその「内面」を演じることが許されたからなのだ。

 これはイニャリトゥ監督の言葉「一番描きたかったことは各キャラクターの感情の旅だったので,それに相応しい構造を後から考えていきました」に通ずるものがある。「内面」とやらを作中で唯一,具現化しえた菊地凛子の存在によって映画が話題になったのだと,沢木さんは言いたいのだろう。沢木さんのいう「内面」を「ありのまま」に置き換えればすんなりいく。

 それはもちろん異論ないけれど,女子高生が変態的「内面」をさらすことが作品の象徴になるのってなんかね…。