作文のイロハ――最初の一字マス

 このブログ「はてなダイアリー」で日記を書くときは,段落の最初の一字分を空けて文章を書くと,なんだか二字くらい引っ込んだところから文章が始まる仕組みになっている。だからはてなに限っては,最初の一字を空けるという基本を排除して,あえて言えば間違った書き出しをテキストに書かないと読みやすい日記にならない。

 これはおそらくブログの読み手に配慮したためだと思うが,かねてから作文作法にこだわる身としてはいささか気になる仕様だ。日記を書くときは必ず段落ごとに一字空けて書くように心がけているから。まあ仕様なのだからしょうがないが,そのことで以前から思っていたことを書いてみよう。

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 日本語の作文を書く場合,段落の書き出しでは必ず一字分のマスを空けるように小学校で習うはずだ。

 これは,べつに読み手の側に立って作文を読みやすくわかりやすくするためのテクニックでもマナーでもなく,日本語の文章を書く上での一種のルールである。だから絵本も教科書も参考書も新聞も雑誌も評論も聖書も,刊行されている日本語の書物はほぼ100パーセント,段落の書き出しが一字,空いている。それが日本語のルール,最低限の規則なのだ。例外として挙げられるのはマンガの吹き出しセリフくらいだろうが。

 ところがネットにあふれている個人HP日記やブログは,そんなルールなどいっさいおかまいなしに,一字空けるなどというごく簡単な基本中の基本的作業を行っている例があまりにも少ない。

 書いている方はそれでいいと思っているのだろうか? 一字空けることを小中学校で習わなかったはずはないのに。

 思っているのだろうな,だから書いているのだろう。おそらく作文を書くことをめったにしなかったのと,文章作法に関していいかげんな考え方をもつ国語教師によって,テキトーな観念を植え付けられた結果だろう。さらには小説や新聞などめったに読むことはなく,マンガばかり読みふけった影響もあろう。

 したがってそういう書き方ではじまるHP日記や文章は,どこか品がなく,まとまりに欠けて,いい加減かつ場当たり的,書いてる本人がわかればよくて,わからない奴は読むなという自慰的文章モドキになっているケースがほとんどだ。

 文章を書くなら最低限の責任を持つことくらいできないのか。作文の一字一字は,自分で考えて編み出した言葉の単なる羅列ではない。それ自体が生きていて血の通っている分身なのだ。

 それに対してこだわりを持つことで,分身は,より磨きがかかり光り輝ける珠玉となる可能性があるのに。

 一字空けるか空けないかがそんなに重要かと疑問を持つ向きもあろう。ではよく考えてほしい。だれかに読ませるなら,あなたならテキトーでいいのかもしれないが,あなたに読ませたいと思う人が,渾身の魂を込めた文章と,なんの配慮も思いやりも見られないいい加減な書き方の文章を持ってきた場合とで,どちらが心を打つか?

 いうまでもあるまい。自分の分身は自分自身。お化粧するのなら本体だけでなく分身にも丁寧にしてあげるべき。だれかの心に訴える文章・作文を書くなら,最低限のこだわりくらい見せてほしい。段落の最初は一字空けるという,小学生から習う基本を忘れてベラベラかますのは,メモや落書きとさして変わらない。

 それとも読み手のレベルをそこまで卑下しているという意味なのか。アンタにはこの程度の文章でいいんだよ,と見下しているのか。大切な日記は,最愛の人に向けて思いのたけをつづる場合もあろうに,最愛の人への文章をルール無視のテキトーですませようなんて,最愛の人もいいツラの皮である。

 まあここに書いてもしょうがないことだがね。