『ゲド戦記』原作者ル・グウィンさんの本音

一部の心の寂しい人たちが集っている,「書かない・踏まない・煽られない」が大原則である2ちゃんねるをつらつら見ていたら(私ももと2ちゃんねらーだったわけだがw),つい先日,どちらかといえば辛口評価したアニメ映画『ゲド戦記』の原作者であるル・グウィンさんの“声明”を面白おかしく提示したスレッドを見つけた。作者はどうも宮崎吾朗監督の『ゲド戦記』に対し,相当なる不快感を抱いているそうだ。リンクを踏んでみたところどうも確実な情報らしく,これは価値ある情報と思うので,追記の形で転載しておこう。
原作者HP
http://www.ursulakleguin.com/GedoSenkiResponse.html

 自著が映画化されるにあたって、ほとんどの作家は何の影響力も行使できません。契約書にサインした以上、原作者は存在しないも同然というのが一般的な原則であって、creative consultantのような肩書きは無意味なのです。フィルム作品を作家(脚本家は別として)のものと考えないでください。原作者に「なんであれは…」といった質問をしないでください。原作者自身も戸惑っているのですから。

 2005年の8月にスタジオ・ジブリ鈴木敏夫氏が宮崎駿氏とつれだって、私と私の息子(『ゲド戦記』の著作権管理を担当している)のもとを訪れました。私たちはわが家にて楽しいひとときを過ごしました。

 そのときの説明では、宮崎駿氏は映画製作から身を引こうと考えている、そこで宮崎家とスタジオ・ジブリは、映画を1本もつくったことのない駿氏の息子・吾郎氏に『ゲド戦記』を製作させたい、とのことでした。私たちはとても失望し、不安にも駆られましたけれども私たちとしては、このプロジェクトがつねに駿氏の管理下で行われるという印象を受け、またそのような確信を抱きました。

 そしてそのような理解をもって、映画化に関して合意したのです。そのときまでに、映画化の作業はすでにスタートしていました。子どもと竜を描いたポスターが、また駿氏の手になるHort Townのスケッチおよびスタジオとしての完成版が、私たちへ贈り物として届けられました。

 映画化の作業はその後、急ピッチで進められました。私たちはまもなく駿氏がこのフィルムに関し、何の役割も果たしていないことに気づきます。駿氏は私のもとにとても感動的な手紙を書いてきましたし、その息子、吾郎氏からも手紙をいただきました。私はそれらにできるかぎり返信するようにしました。残念なことに、このフィルムの出来映えをめぐって、太平洋の両岸で怒りと失望の声が上がっています。駿氏は結局のところ引退などせず、現在他の映画を制作中とのことです。それを聞いて私はさらに失望しました。この件についてはもうお終いにしたい気分です。

 映画に関して、大部分きれいにしあがっているのですが、この急仕立てのアニメーションにおいては、かなり省略されている箇所があります。『となりのトトロ』のような繊細な筆致も、『千と千尋の神隠し』のような豪華絢爛もそこにはありません。イメージは効果的とはいえ、多くの箇所で因習的なものにとどまっています。

 大半の箇所はエキサイティングなのですが、そのエキサイティングさは(私が『ゲド戦記』の精神に完全にそぐわないと感じるほどに)暴力の描写に頼ったものです。

 私は、大半の箇所が整合性を欠いているように思いました。これは私が、この『ゲド』とはまったく異なった物語の中に『ゲド』の物語をなんとか見いだし、たどろうと努めていたからかもしれません。登場人物は原作と、名前のみ同じで、気質も経歴も背負う運命も全然別のものになってしまっています。

 もちろん、映画が小説の筋を正確にたどる必要などありません。映画と小説は別々の芸術であって、「語り」の形式がまったく異なるわけですから、小説の映画化においては、大々的に手直しせざるをえないのかもしれません。けれども、40年も版を重ねた原作と同じタイトルをうたい、それを映画化したものであるというからには、登場人物の性格や全体的なストーリーに対して、ある忠実さがみられてしかるべきではないでしょうか。

 アメリカにおいても日本においても、映画製作者たちは私の『ゲド戦記』とは名ばかりの、そしていくつかのコンセプトを取り入れただけの――もとの文脈からあちこちの細部を取り出し、原作のストーリーをまったく別個のプロットに置き換えた、整合性も一貫性も欠いた作品をつくってしまったわけです。この、原作に対するのみならず、原作の読者らに対する敬意のなさには驚くばかりです。

 それから私はこの映画の「メッセージ」がちょっと荒っぽいと感じました。原作のフレーズがほとんどそのままの状態でよく引用されているのですが、生と死に関するフレーズにしても、balanceに関するフレーズにしても、あるいはその他もろもろ、原作とはちがって、登場人物の性格や行為から発せられたものではないのです。どんなにいいメッセージであろうと、それらは物語や登場人物の性格の中に織り込まれたものではなく、いわば「血肉になっていない」のです。ですからそれらはお説教じみたものになってしまっています。いや、確かに『ゲド』の最初の3巻はいくつかの警句を含んでいるのですが、私はこれほどあからさまに目立たせようとして、それらを配したわけではありません。

 映画においては、原作にあった倫理的な寓意もあやふやなものになってしまっています。たとえば、アレンが父親を殺害したところ。動機がわからず、気まぐれな行為になってしまっています。「影」ないしもう一つの自分がそれをなさしめたのだ、という説明が後になって入るのですが、説得力をもったものではありません。なぜ少年は2つに分裂するのでしょう? これでは全然わかりません。

 このテーマは実は『影との戦い』に由来したものです。その作品では、ゲドがいかに、またなぜ「影」をもつにいたったか、わかるようになっていますし、最後のところでは「影」の正体もわかるようになっています。私たちの中に存在する「影」は魔法の剣を振り回して取り除けるようなものではないのです。にもかかわらず映画では、「悪」の存在は魔法使いのKumo/Cobというならず者として具象化され、彼を殺せばそれですべて片がつくということになってしまっています。

 現代のファンタジー(文学/政治を問わず)は、いわゆる善と悪との戦いを人々の殺害によって解決するのが通例です。『ゲド戦記』はそのような戦争をコンセプトとしたものではありませんし、単純化された問題への単純な解決を提示するものではないのです。

 吾郎氏の映画では、(原作ではもっと美しいはずなのですが)翼をたたむ竜の優雅な姿をたいへん素晴らしいと思いました。彼がイメージした動物は非常にきめ細かく描かれています。なかでもhorse-llamaの表情豊かな耳は好きです。それからとてもよかったのは、大地を耕し、水を引き、動物たちを小屋に入れたりするシーン。あのシーンが提示する大地に根ざした静けさ――それこそ、この映画において絶え間ない対立と「アクション」に満ちた展開を賢明にも救っていたように感じました。少なくともそうした箇所の中に、私は『ゲド戦記』の姿を認めました。

上記の翻訳文はhttp://abnormal.sakura.ne.jp/index.php?itemid=952から転載させてもらったことを付記しておく。翻訳作業を行ったのがこのブログ主であるかは不明だが,またブログ主のスタイルからしてとても敬意を払いたくなる種類のものではないが,無断転載という形をとってソースを明かさないのは失礼であり,そうなるとブログ主の人格レベルに私も近づくことなりかねないので,本質ではないとはいえここに断っておこう。

さて,世界三大ファンタジーゲド戦記』をこの世に誕生せしめた原作者は,いま公開中のアニメについて辛口どころではない評価というより感想をくだしたようだ。この件について論ずるにはやはり原作を読まないいけないかもしれない。あるいは映画館に再び足を運ぶ可能性も。『千と千尋』以来のリピーターになるのかねえ。