碧天舎破産の余波

友人の女性が,碧天舎という自費出版を売り物にしている版元から小説を出版して,私もお義理で買い求めて読んでみたとき,小説の内容については文章自体はよく書けていて,表現方法や作文技術的な点はとくに問題を感じなかったけれど,かんじんの「おもしろさ」については,個人的な評価を下すなら40点がいいところかなと思いました。

だから,62ページという薄っぺらなその本,というより小冊子――400字詰め原稿用紙にして60枚そこそこの短編を最後まで読む集中力は維持できず,20ページあたりで中断したままで,なぜか手元にあったりする。ページ数や枚数はいま数えました。笑

言っちゃえば駄作なのでした。まあ友人だから率直には言いづらいが,駄作をあげつらうなら世に出されている小説の96%は駄作だから,別段その女性の才能のなさを悲観することもないでしょう。駄作であって当たり前なのだから。

ではなぜ,かような駄作が最近はつぎからつぎへと出版されるのだろう?

理由は簡単。「出版しませんか?」という甘言に乗せられる単細胞が多いからなのです。

単細胞はいつの世にも存在するし,それが悪というわけでもない。単細胞にも単細胞の言い分・事情があるわけで,彼・彼女らには基本的に「駄作」が充満していることの責任はありません。

では駄作が量産されている責任のおおもとはどこにあるのか。そう,出版社ですね。

出版の自由がわが国には存在するから,まあゴミ以下の,紙とインクを無駄に消費するだけの冊子をいくら出版しようがそれは自由なわけ。問題はその目的がどこにあるのかということ。日本人の文化的価値を低下たらしめる駄作を,大量に出版する意図とはなにか。

「儲けたい」,それだけなんですね。

著者にお金を出させて,本をつくってあげ,流通に乗せてあげる。それだけでけっこう儲かるらしいんですよ。

著者は,精魂込めて書き上げた小説・詩歌・紀行文などなどを,世に出して評価を得たいと夢見ます。そのために出費を惜しまないという方ってかなり多いんですよね。

そんな「儲けたい」出版社のひとつ「碧天舎」が破産したのは二週間くらい前かな。なんでも,出版費用を支払ったにもかかわらず破産されてしまい,出版の夢も資金回収の道も閉ざされた方々が大勢おられるようで…。その数約250名ですか。

気の毒としか言いようがありません。

いや,実は私も他人事じゃないんです。私も過去に自費出版しています。まあ費用も部数もたかが知れてるレベルですが。でもまもなく第二弾が出るんです。自費出版じゃなく共同出版てやつですが,小説でも紀行文でもない,本格ルポルタージュです。

この碧天舎破産――執筆者『お金返して』のニュースは,ちょいあれですね,心中穏やかでないつーか……。ま,私が依頼しているところは自費出版を看板にしているわけでもないし,すでに秒読み体制にはいっている発売も。

営業に出回らなければならないんですわ,この私みずから。

今後,出版してもらう側(著者)も,儲けようなんて思わない方が無難なんでしょうね。流行作家を目指して裕福な暮らしをしたい気持ちはよくわかりますが。もちろんそれだけが動機ではないでしょう。「記録を残すことに意義がある」と崇高な使命感のもとに出版に臨んだ方も少なくないでしょうから。

さて俺だが…大丈夫だろうな(笑)。そうそう旧PCの買い取りの件,メーカー側から「買い取りできん」旨の返事きた…。