『バベル』観た

binzui2007-05-05


 映画鑑賞をひさびさ北上シネマで。観たのはあの『バベル』(アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督・製作・原案)だ。大型連休とあって,20時50分開始なのに館内はなかなかの入りであった。といっても田舎だから座席の一割にも満たないが。

 なにかと話題作の『バベル』,アカデミー賞作曲賞受賞のほか6部門7ノミネートなどの輝かしい実績を誇る。とくに日本で評判なのが,ゴールデングロブ賞助演女優賞にノミネートされた菊地凛子だろう。昨今では,上映中に気分が悪くなるという,怪しげな話まで流れ(こういう,本筋とは無関係の下馬評が流れて話題をさらうこと自体,映画をめぐるひとたちの多くが『映画』を読み違えている証左),いろいろな意味で楽しめそうだということで,まず娯楽モードで観た感想を。

 単に感動したい,泣きたい・怒りたい・笑いたいといった目的での「おもしろさ」の点では,ギリギリセーフといったところ。途中で席を立ちたくなることはなかったが,トイレに行く程度ならいつでもOKだろう。息もつかせぬサスペンス,みたいな展開はなかった。観客にじっくり鑑賞してもらいたいという監督の気持ちが現れた結果か。

 というわけでこれは,まさしく“映画人”のつくった映画だろう。日本ではしたがって,大ヒットはすまい。あくまで話題作どまり。娯楽派向けではないといえる。

 では本題の取材モード。

 まず配役。

 主演の筆頭役者はブラッド・ピット。よくわからんがブラピの愛称で知られる俳優ってこれか。妻役のケイト・ブランシェットとの共演が型にはまりすぎた感があった。モロッコで妻を思いやり,それを突き放す妻の,心のうちに潜めた愛憎劇が,少ないセリフの中でリアルに伝わってきて,ここはさすがに世界的に有名なハリウッド役者だけのことはあると思った。子役の女の子エル・ファニングをだれかに似てるなー思ったら,ダコタ・ファニングの妹だったとは。ダコタはスピルバーグ監督の『宇宙戦争』に出演してたっけ。道理で似ている。演技力も。

 モロッコ系のキャストは,これまたハリウッド俳優に劣らない優秀さ。監督が抜擢したのだと思うけれど,彼・彼女らのあの存在感がなければ,ブラピらの演技力などなんの光も放たない。なのに日本版公式HPにモロッコ俳優陣がほとんど紹介されていないのはなぜか。まあ紹介する必要なしと判断したんだろうな。つまり差別だろうな。見えない存在だからだろうな。アメリカ版HPではどうだか知らないが。

 メキシコ系俳優。乳母役のアドリアナ・バラッザや甥のガエル・ガルシア・ベルナルらの情熱あふれる演技力はきっと,おなじメキシコ出身のイニャリトゥ監督自身を投影しているのだろう。移民に対する官憲の横暴さには,ふたりの役者と監督の屈折した思いがこめられていると見ることもできよう。

 そしてわが日本の俳優陣。

 役所広司。『失楽園』や『うなぎ』のイメージが強い。いってしまえば普通の父親役で,個性はさして重視されない役回りながら,これまたたぶん原稿用紙1枚程度しかないセリフから,物語のの核ともなる存在感をかもし出さねばならぬ重要な位置を獲得すべく,充分に監督の期待にこたえてくれたようだ。

 さて菊地凛子についてくわしく書いてみる。本作でダントツの話題女優。全キャストの中でとびきり目立つ役柄だ。公式サイトにはこう書かれている。

 「この役は私にしかできない、そう思いました。」

 こりゃまたずいぶんな大見得だな,と鑑賞前に思った。聾唖の女子高生。1981年生まれだから…24〜25歳か。そんなのに17〜18歳の女子高生を演じさせるのもどうかと思うが,たしかにこれでは18歳未満の現役は起用できないな。でも「この役は私にしかできない」のではなく,「菊地凛子のようなタイプしか出演を受諾しない」と見たほうが自然な気がする。聾はともかく露出狂の女子高生なんて普通,並みの女優やタレントは嫌がるだろう。たとえハリウッド映画でアカデミー賞が期待されるにしても,「こんなことしてまでアカデミー賞なんていらない」と尻込みするだろうて。

 それでも果敢に引き受けた菊地凛子の思惑は当たった。あこがれのブラピと共演(?)し,しかも世界の晴れ舞台に立てたのだから。さてその演技であるが,気合充分イケイケ体当たり。それだけ。もちろん役づくりには相当苦労したと思われる。お疲れ様としか言いようがない。これで得た名声が今後の足かせにならないか,ちょい心配なところだ。どこかで壊れてしまうような気がしないでもない。

 刑事役の二階堂智もなかなかいい演技であった。セリフをとちったのが演技だとしたら,かなりの粋どころである。それを知りつつOKした監督も同様。ある意味一番光っていたのではなかろうか。

 以上,配役について書いた。

 音楽。これはハリウッドらしいこだわりだ。日本・アメリカ・メキシコ・モロッコ。それぞれの文化と民族を取り入れて背景を演出するのは監督の一存だけではもちろん不可能。演出はじめ,各国スタッフの思い入れが監督のこだわりと見事に融合し,すばらしいメロディが完成し,映画を盛り立てた。

 脚本。『バベル』の意味は公式サイトにあるとおりとして,4カ国にわたる登場人物の立場や環境や生い立ちや深層心理劇が,国境を越えてつながるという意味を象徴しているのだろうが,無理がある――とは不思議に思わなかったな。とするとこれも脚本と監督の腕前か。

 物語。上記にあるとおり。でもラストシーンの,菊地凛子演じるチエコと父親の抱き合うシーン,なにこれ…と思った。チエコはおそらく飛び降り自殺しようとしてベランダに立ち,果たせず呆然としていたところへ父親が帰り,察した父は娘を抱きしめ――というところか。命を大切に,なんてありふれたメッセージじゃないと思おうか。ラストシーンはモロッコの少年こそふさわしいのに。

 総評。各国の文化を見事に物語に溶け込ませた監督の手腕はさすが。ことに日本の若者の描き方は鋭い。もちろん日本のスタッフが取り仕切ったのだろうけれど。でもなぜに聾にして露出狂の女子高生? 必然性がよくわからない。映画では欠かせない,いわゆる話題づくりのアイテムに,若いきれいな日本人女優を当てたのなら,舐められてるといってもいいんじゃないか。依頼する方もアレだが,受ける方もどうかしていると言ったら酷かな。名声と引き換えになにかを失ってないか,菊地凛子に機会があれば聞きたいものである。

 最後に,イニャリトゥ監督が来日して語った言葉を公式HPから引用させてもらう。本作でなにを描きたかったかを監督は以下のように話した。

 この映画製作の原動力となったのは,深い思いやりや哀れみという,今の人間が忘れ去ってしまった気持ちでした。今は白黒つけたがったり,一つのことを決めるのに極限化してしまってグレーゾーンが無くなってきていると思います。しかし人間が本当に何かを判断するためには,人間的な哀れみや同情が必要だと思うのです。この映画の登場人物は善人でも悪人でもありません。本当の悲劇はその二つの極限がぶつかり合って起きるわけですが,今回の登場人物は悪意を持っているわけではありません。それぞれの純粋さや無知による犠牲者なのです。一番描きたかったことは各キャラクターの感情の旅だったので,それに相応しい構造を後から考えていきました。

 「各キャラクターの感情の旅」「に相応しい構造」として,日本人女子高生をイカレ露出女に仕立てるんですか…。

 つぎは『パッチギ! LOVE&PEACE』かな。