未履修問題――日本の教育って

もう旧聞化したきらいもあるが,かの高校教科未履修問題について書いてみたい。

進学校を中心に,本来取得しなければならない単位のための授業時間を,受験に大事な教科に回したため未履修となっていた問題,受験戦争に勝ち抜かねばならないためのなりふりかまわぬ高校の方針に,さすがにあきれ果てた。

この問題が明らかになったのは岩手が発端だったらしいが,いまでは熊本をのぞくすべての都道府県に,単位未履修高校が存在することがわかり,言ってしまえば「どこでもやっている」ことが明るみになった理屈か。

校長はじめ高校関係者はこう思ったのだろう。教育委員会は高校の授業時間の割り振りにはいちいち口出ししない。そこまで立ち入った真似はするまいと。しかるに生徒たちの受験に対する希望と熱意はいかなる手段を用いてもかなえてあげたい。受験に必要のない科目は捨て置き,重要な科目を集中的に学ばせ,受験に備えよう,と。

きれいごともいいところだ。ようするに「ズル」ではないか。

もう言い尽くされた感があるが,ズルをせずまじめに学習指導要綱に沿った授業を行った学校はどうなるのか。受験に必要なくとも授業をきちんと行い,それでもしっかり受験に備えた。政府は未履修高校に対し,生徒への「救済策」を講じたが,それは言うなれば「ズルをしたもん勝ち」という図式が,これにて完成したことになるのだ。

教育委員会。日の丸・君が代の徹底にはまさしく一切の妥協を排し,反対勢力を徹底的に弾圧し,「強制はしない」という文言を反故にした。 強制反対を態度で示した少数の職員に罰則を課し,まさに「そこまでやるか」といったところだった。

教師の犯罪(「不祥事」という官製語が用いられるが犯罪は犯罪である)は覆い隠そうとするが,国旗・国歌がらみの先生の反対行動は逆に晒し,吊るし上げようとする。教育委員会の決意というか,それを操っている背後勢力の思惑が見え隠れする現象だ。

知り合いの校長先生がこんな本音を漏らした。「任期はとにかく大過なきよう」と。部下が不祥事を起こしたり,児童・生徒が問題行動を起こすことのないよう,任期を無事勤め終えたい,というのだ。

そこへきたこの未履修問題。責任はむろん学校――校長にあり,生徒には一片の瑕疵もない。しかししわよせは生徒にいく仕組みになっている。なにせ履修しないことには卒業できないのだから。

補習か。受けなければならない授業をあとから受けることがなぜに「補習」なのか疑問も残るが,まあ補習を受けざるをえない生徒さんには気の毒に思う。

それにしても笑わせる。教育委員会の無能ぶりに。文部科学省の間抜けぶりに。ひいては政府の痴呆ぶりに。基本的なところから徹底すべきことを徹底させず,教育改革を語る資格があるのか。教育基本法改正論議がかまびすしいところへ,もう何年も前から行われていたという「ズル」授業。すでに卒業したたくさんの生徒たちも未履修のままだったというではないか。いままでなにを「教育」し「指導徹底」させていたのか。

ふと思って,高校3年の知り合いの女の子3〜4人に未履修問題について聞いてみた。彼女らはいずれも進学校の生徒ではないので,未履修はなく,取得単位に問題はないそうだが,東海地方の子がこんなことを言った。「管理教育がすごい」と。

彼女が発したこの一言が,すべての高校生を代表する心境ではあるまいし,したがってこの言葉でひと括りにはできないが,「管理教育」を実感する高校生は決して少数ではないだろう。いずれ示唆に富む言葉である。

そう,政府――文部科学省――教育委員会――学校は,ただ管理したいのだ。子どもたちを。国旗・国歌を強制するのはその顕著にして端的な一例。

しつけの問題,礼儀作法の問題,などとピントはずれな言い分をかます人が多いが,管理されるだけ従順でお利口さんな子どもなど,社会を渡っていける優秀な人材になれるわけがない。たいていはひとりでなにもできない無能なのだ。ちょっと考えればわかることなのに。

未履修問題は,生徒を「管理する側」が,自らの無能・間抜け・痴呆ぶりを晒し,この国を任せる若者を間違った方向へ導いていることを証明した,まことにわかりやすい事件である。