みんなが観たがる映画は要らない

 前回に述べたこと。

 「朝鮮人日本兵の描き方はきっと評価が二分されるだろう(いまならとくにね)。それは差別問題に直結するからだが,井筒監督の描きたかったこと,伝えたかったことは,さきの侵略戦争を通した民族差別問題であろう。全体的に長いシーンではなかったけれど,2時間ほどの長丁場にしては,気づいたら「あれ,終わりなのか」と思ったほど時間の経つのが早く感じられたのは,あの行き詰る(かつ鬼気迫る)戦闘シーンによるところが大きい」

 これと正反対の批評が『週刊金曜日』に掲載されていたので,関係する節を引用する。

 前作の脚本が,終末に向けて単体のエピソードが見事に収斂してゆく完璧な出来だっただけに,余計そう感じるのかもしれない。二時間七分の上映時間を一時間四五分に削る英断をしてほしかった。(2007.5.18号)

 ようするに上映時間2時間あまりというのは,物語の筋からして長すぎるということらしい。そうでしょうか。私としては2時間30分でもよかったくらい。先に書いたように,エンディングにさしかかったあたりで「あれ,終わりなの」とさえ思ったほど。主人公のアンソンにもっと格好いい役回りをさせてもいいんじゃないかとも。

 まあ,それはそうと本題をつづけよう。

 井筒和幸監督は,本作公開前から,ある著名人が取り仕切った映画について,対抗意識を燃やすような発言をしていたっけ。その映画とはあれです。『俺は、君のためにこそ死ににいく』(石原慎太郎製作総指揮・脚本,新城卓監督)。週刊金曜日の映画評でも「両作品を見比べて,日本の進路を選択してほしい」とあったが,私としては「日本の進路を選択」する判断材料に石原映画のごときを用いる必要などないと思っているから,「俺は、君の―」なんか観る予定は立てていません。かの駄作中の駄作『プライド 運命の瞬間』みたいな自慰的カルト映画と大差ないと勝手に思っているので。

 せっかくだから触れておくと,『俺は、君の―』は,けっこうな観客動員数を維持しているらしい。『パッチギ!』をも上回っているという。さもありなん。「おもしろいから」でしょう。少年ジャンプが売れるのと同じこと。短小軽薄,わかりやすくてウケがよくてぬるい涙を流せて,みんなが楽しめる映画が売れる日本だから。社会性や啓発性の高い,賛否うずまくような“問題作”は,一般にはなかなか受け入れられないどころか,むしろ避けられるのだ。『パッチギ!』みたいな民族差別問題を底流に敷いた映画はとくに。

 話を『パッチギ! LOVE―』に戻す。誇り高いハズの日本軍人が,朝鮮人の少女を皇国軍用性奴隷(従軍慰安婦)に徴用すべく強制的に連れ去るシーンが出るとは,ちょっと驚いた。韓国や中国映画でもない,まぎれもない邦画で「強制」が描かれていた。わずかなシーンだけれど,よく織り込んだものである。ああいう問題場面を脚本に入れ,観客に問う姿勢を率直に称えたい。爆撃シーンでは兵士の体が四散していた。ジンソン(アンソンとキョンジャ兄妹の父)とともに逃亡した朝鮮人仲間も爆撃で下半身が吹き飛ばされた。仲間はそれでも生きていた。

 これを悲惨だとか,戦争はやめようというのはたやすい。逆に「描き方が手ぬるい」と評価する向きもあろう。しかし,植民地のひとびとが日本の侵略戦争の最前線に立たされたあげく,どのような運命をたどったか,井筒監督は厳しさの中に,朝鮮人に対するいたわりと思いやりを忘れなかったことが,上記のシーンにて証明されている。

 そんな死線をさまよいながらも生き延び,日本へわたってきてアンソンとキョンジャを育てたジンソンのその後は作中では触れられていない。3作目がつくられるとすればそのあたりが軸になるかもね。さすがに気が早いけれど。

 『パッチギ! LOVE&PEACE』は前作にたがわぬ名作であろう。ただし興行的にはさしたる収益はのぞめまい。評価は高くても売れない。職人気質の高い職人は疎まれる。カネと名声をあてにして世論や俗に迎合するような浅い映画は,いずれ消えてなくなるだけなのに。

 何十年たっても輝きを失わない映画をこそ映画人はつくってほしい。“みんなが観たがる映画”なんか要りません。